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活動を振り返る その1

南北法律事務所 小池 振一郎

 1974年東京法律事務所入所。松井繫明団員から、「要請されたら、逃げないこと」とアドバイスされ、それを愚直に実行して50年になろうとしている。
 東京法律事務所時代は出版労連、民放労連などの労働事件が多かった。小島成一所長から、「判決を取るのは愚の骨頂。和解で勝て。」と言われ、10年間一般民事事件ではほとんどを和解で解決した。
 要請を受けて1981年五反田法律事務所に移籍した。市来八郎所長から「専門分野は専門家に任せること」と、税理士、不動産屋などとの連携方法を教わった。移籍直後の区長選で、品川区役所の労働組合が作成した区長選候補者を応援するビラが公選法違反文書として組合事務所が捜索された。その主任弁護人となった。被疑者2名のうち1名が早朝自宅逮捕されたが、その日は他の1名はたまたま実家に帰っており自宅不在だった。警察から見れば行方不明で、引渡を求めてきた。こちらから引渡すのはいかがなものかという意見があったが、逃げ切れるものではないし、そもそも公選法が憲法違反であり悪いことをしているのではないので応じることにした。但し、荷物整理のために職場に戻すが午後5時までは逮捕するな、と約束させた。職場に戻った当人は自分の机の上に立って、延々と弾圧の不当性を訴え、みんなに拍手で見送られながら連行されるという劇的な展開となった。逮捕された2人に毎日接見し、職場の寄せ書きを金網越しに見せて激励した。取調べでは、「弁護士がお前を差し出した。お前の味方ではないぞ。」と言われたそうだ。勾留理由開示公判を行い、神山啓史弁護士のデビュー戦となった。2名の釈放、不起訴を勝ち取ったが、この事件で弁護人接見の重要性を実感した。
 監獄法改正として登場した警察拘禁二法案(1982年国会提出、1987年再提出)は、刑訴法上の接見交通権が施設管理権の名の下に制限され、代用監獄が警察監獄に格上げされるもので、容認できなかった。団東京支部の反対運動に参加していた時、二弁監獄法委員会にも入るようにと田中富雄団員から勧められた。弁護士会活動に本格的に関わるきっかけだった。日弁連拘禁二法案対策本部事務局にも入り、全国の団内外の弁護士たちと活動を共にする中で、団外にも信頼できる弁護士がたくさんいることに目を開かされた。
 1987年団総会は警察拘禁二法案を団の最重要課題として決議し、私が団本部事務局長に就任した。団通信を<団の要>として最重要視し、トップ記事をどうするか、その後の順番をどうするか、毎号神経を使った。東京では、団活動と弁護士会活動に団員が分れる傾向にあったが、できるかぎり結びつける努力をした。
 日弁連対策本部内には、「日本の恥を外国に晒すとは何事か。」という意見があり、日弁連が国際活動に関わることに消極的であったので、1988年『拘禁二法案に反対し代用監獄の廃止を求める市民センター』(加賀乙彦代表)を作り、国際人権自由権規約委員会に五十嵐二葉団員を派遣しロビー活動をした。市民センターの活動はその都度メディアに報じられた。悪法反対運動に国際的な光をあてれば、国内では一見少数のように見えても国際社会では多数であると確信でき、それが国内世論を動かすパワーにもなる。メディアも取り上げる。各国の進んだ刑事施設を見て、日本との人権感覚の落差に衝撃を受けた。団の国際活動の始まりでもあり、団が出版した『ザ・代用監獄』(白石書店1989年)を読んだ緒方靖夫さんが自らの盗聴事件について国際的に訴えるヒントとなった、と後に本人から聞かされた。
 警察拘禁二法案は、1991年再々提出されたが、もはや推進側にエネルギーはなく葬り去ることができた。被疑者留置規定が改正され、警察接見が基本的に自由に夜間もでき、接見時間の制約もなくなったのは法案反対運動の成果であった。しかし、代用監獄は存続したままである。
 代用監獄を廃止するためにも、代用監獄が捜査当局にとって意味がなくなるよう、刑事司法全体を改革する必要がある。私は、次なる日弁連活動に徐々に深入りしていくことになる。1989年日弁連刑事弁護センターが設置され、その制度改革小委員会事務局長として、運用改善と制度改革は車の両輪であると「アクションプログラム」と銘打ち、刑事司法改革の図式を描いた。1991年中坊公平日弁連会長に随行してジュネーブを訪れ、自由権規約委員会に日弁連報告書を提出した。この頃には、「日本の恥を外国に晒すとは…」という声はなくなっていた。日弁連の国際活動は拘禁二法案反対運動が切り開いたといえるだろう。
 出版したばかりの『刑事司法改革 ヨーロッパと日本』(海渡雄一弁護士との共著・岩波ブックレット1992年)を20冊抱えて韓国の民弁を訪れ、日本の当番弁護士制度を紹介した。すると翌年、韓国に当直弁護士制度が実現したことには驚いた。この韓国訪問をきっかけに日韓法律家交流協会を梓沢和幸弁護士らと立ち上げた。韓国の代表的市民団体である参与連帯の朴元淳事務処長(後のソウル市長)が来日したときの感想を書いた「参与連帯の衝撃」(法と民主主義2000年12月号)が、後にソウルの参与連帯本部を訪れたとき、参与連帯を紹介する日本語資料として山積みされていたのを見て、また驚いた。
 1993年、元日本テレビ労組委員長から、「日本テレビ昼のワイドショー『ザ・ワイド』をプロデューサーとして立ち上げるので、コメンテーターになってほしい。」と要請された。日本テレビ労組とは、解雇事件、アナウンサー配転事件、昇格差別事件などの代理人として長く付き合っていたが、「芸能ネタなど話せないし、興味もない。」と言って即座に断ったが、「別にそんなコメントは期待しない。」と言われた。気になって、坂本修団員や松井繁明団員に話したところ、「やるべきだ。でも妥協はするな。」と言われ、引受けることにした。団5月集会に坂本堤団員のお母さんが訴えに来た時、その場でワイドショーへの出演をお願いし、実現した。神戸の少年事件では、代用監獄でラーメンを目の前にして自白を強要された実例を紹介したところ、キャスターが、「知り合いに警察の方が何人もいるが、そんなことはやっていません。」と言い、私に「(コメントを)訂正した方がいいと思いますよ。」と迫った。私は、「国連の国際人権規約委員会が日本政府に対して、代用監獄は廃止すべきだと勧告しています。」と答えた。生放送中のハプニング。この模様は『噂の真相』(1997年9月、12月号)に大きく取り上げられた。マスコミとは何か、裏側から見る貴重な5年間であった。その体験を著した『ワイドショーに弁護士が出る理由』(平凡社新書2001年)を執筆する中で、表現の自由、出版の自由の大切さを実感した。
 21世紀に入り、裁判員2名・裁判官3名とする裁判員制度が立法化されそうになった。2名では裁判員はお飾りに過ぎない。日弁連執行部から、裁判員2名に反対するための映画づくりを要請された。そこで脚本の差し替えなどに悩んだ末、コメンテーター仲間の市川森一・日本放送作家協会理事長に相談した。すると、NHK大河ドラマ『山河燃ゆ』などの近藤晋プロデューサーを紹介してくれた。行きがかり上、私が日弁連サイドの事実上のプロデューサーとなり、近藤プロデューサーと私とのやり取りで映画作りの基本が進んだ。日弁連は、陪審制に近づけるために当初、裁判員11名、裁判官1名の映画を作るつもりだった。ところが、この映画の監督を引き受けてくれた石橋冠監督が、「11名では多すぎて映画にならない。」とぼやいているという。市川さんが、「キリスト教には傲慢、嫉妬、暴食、色欲、怠惰、貪欲、憤怒の7つの大罪がある。それに悪魔をはめ込んで人物設定している。昔から傑作ドラマは、『7人の侍』『7人の刑事』『男女7人夏物語』などどれも7人だ。」と言う。それで私は即座に7人でOKした。また、「評議室での評議の場面は映像として面白くない。法廷を使うのはダメか。」と訊かれ、私は、法廷で評議するなんて、とんでもない注文をしてくるなと思ったが、その場で思いついて、「では、1日は評議室、あと1日は評議室が雨漏りで使えなくなったことにしましょう。」と提案した。こうして法廷での評議シーンが撮影され、裁判長席に座った裁判員が「いい眺めですな。偉くなった気分です。」と述べたことに対して、裁判官役の石坂浩二さんが「私はそこに座って偉そうに見下ろしていたのかもしれない…」とつぶやく名シーンが生まれた。初の日弁連製作映画『裁判員~決めるのはあなた』が完成し、有楽町読売ホールでの試写会は、森山真弓法務大臣、最高裁判事、国会議員ら多数の参加で大成功した。日弁連は、全国の自民党後援会などで上映とシンポの集いを開いた。私は、田中敏夫団員や小林元治・現日弁連会長らと一緒に富山や鹿児島にも行き、司会を担当した。その集大成が日比谷公会堂で開かれた日弁連司法シンポだった。近藤プロデューサーと石坂浩二さんらをパネラーとして私が司会したが、超満員となった。後に、この映画で裁判員2名構想が潰れたとの声が権力筋から聞こえてきた。映画の7名から1名少なくなったが、<裁判員6名>が実現した
 (次号に続く)


以下に、筆者の論稿を掲げる。
ⅰ「『こんな警察にこんな法律を』―警察拘禁二法」『自由法曹団物語 世紀をこえて』下巻 日本評論社2002年
ⅱ「弁護士コメンテーターとは―」法と民主主義2007年11月号
ⅲ「ドラマ『裁判員~決めるのはあなた』はこうして作られた」自由と正義2003年8月号


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