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自分史 Ⅱ(再審など)

お茶の水合同法律事務所 西嶋 勝彦

 私の刑事関係の活動範囲を語るとき、日弁連との関わりを真先に上げておいた方が理解してもらえるだろう。
 弁護士登録以来、私の活動分野は大きく分けて①監獄法改正、②悪法反対、③再審、④再審とマスコミになる。
 ①は、明治40年刑法と同時に施行された監獄法であるが、その後刑法が何度か改正されてきたのに対し、監獄法は只の一度も改正されておらず、正に古色蒼然としていた。諸外国では処遇理念や実際上の必要から改正がくり返されてきたのに、日本は全く反映していない。
 日弁連は、予てから、改正案を策定するなどして、広く訴えてきた。
 対抗するかのように昭和57年法務省が監獄法全面改正案を公表した。警察留置場は刑務所や拘置所と異なり一時的滞留施設であり、「処遇」は無縁である。ところが、監獄法改正案は、留置施設法と一体となって、いわゆる拘禁二法案として登場したのである。
 日弁連は、対策本部を設置して全国の会を上げて廃案を目ざして全面対決した。自民党の某議員をして、「雲霞のごとく弁護士が議員会館を埋めた」と言わしめた。この法案反対運動の成果が実を結び二法案は廃案となった。代用監獄が認知されるのを阻止したのである。この運動が以後悪法反対や立法要求の国会要請のパターンとなっている。一方で、日弁連は法務省と22回、警察庁と8回協議を重ね、私も両方の協議メンバーとなって活動した。北は山形から西は福岡まで全国の会に招かれて講演もした。私は日弁連拘禁二法対策本部の事務局長を17年間(途中東弁の事務局長も兼任)続けた。
 この間、法務省と警察庁の担当者と海外の施設(英、独、伊)を視察した。勿論私も加わった。
 最終的に日弁連の意見も取り入れた監獄法改正案と留置施設法案が平成17年に別法として成立した。代用監獄を認知させなかったのである。
 ②は、刑法「改正」反対、少年法「改正」反対、国家秘密法反対である。国家秘密法案は妥協の余地なく、廃案以外なく、各会が日弁連に結集して阻止に成功した。刑法改悪は法務省との協議によって法案提出を許さず、完全勝利した。渡辺脩氏(13期)や石川元也氏(9期)が中心として活躍した。この方針に反対して協議をつぶす行動に終始したのがいわゆる新左翼グループであり、日弁連会館や報告集会の会場にバリケードを築いたりしたが、そのハネ上りは会員のヒンシュクを買った。そのグループのメンバーがその後厚顔にも各会や日弁の要職に名を占めているのに驚く。
 私は東弁にあって、他会に先駆けて①の拘禁二法反対をリードし、各弁護士会や会の態度表明に尽力した。
 少年法は後日大幅修正の上法制審を通過して成立した。
 私は、団に設置された関係部署のメンバーの一員となり、活動した。
 ③は、前提として、日弁連と再審の関係を説明しておく。
 まず、多くのえん罪を争って最高裁まで闘う場合、関係当事者は弁護人と本人及び家族ら支援者に限られる。
 これら全ての事件を日弁連が支援することはない(又出来ない)。
 再審まで闘うことになって、日弁連に支援を求められてはじめて人権委員会で審査の上援助を決定する。
 日弁連の支援は、当該事件の委員会を設置し、委員を選任し、委員会で決定した鑑定の費用、記録謄写の費用、委員の旅費、合宿の費用等を支給する。つまり人権委員会が委員と費用を援助して再審開始を目ざす訳である。
 選任される委員は、それまでの弁護人が横すべりすることもあれば、新たに選任される。この新たな委員は、在任中の人権委員や、特別に委嘱する場合もある。
 私は登録2年目から東弁推薦の日弁連人権委員となっていた。この時の日弁連人権委員長が大塚一男さんだった。
 そこで大塚さんは、すでに動きはじめていた徳島再審事件の委員長に私を指名した。原田香留夫氏(故人)の動きをけん制して、第5次再審申立を準備せよという沙汰である。同期の伊多波重義さん(故人)や地元の林伸豪さん、申立人冨士茂子さんが女性であることから女性弁護士を多く委員(=弁護人)に選任した。冨士さん救援に、当初から瀬戸内寂聴さんをはじめとして市川房江参議院議員らが支援者だった。弁護団長として和島岩吉氏(故人)が内外に紹介され、原田氏も弁護人として動いていたので、以後両者との調整に苦労することになった。再審開始決定時の主任裁判官だった秋山賢三氏に、東弁の夏季合宿の折、袴田事件(第1次再審)の弁護人に加わるよう説得してOKをとったことも記しておきたい。
 大塚さんは、次に私を島田事件の弁護人に推挙した。それまで、弁護団のみで取り組んでいた第6次再審が静岡地裁の請求棄却となり即時抗告を闘うには日弁連の支援が必要となり、援助申立となった。団長の大蔵敏彦氏は大塚さんと同期(1期)で、大塚さん自身弁護人となる予定で援助決定するに当り、私も委員に引き込んだのである。
 そして、江津事件となる。これは地元弁護人高野孝治氏(21期)から最高裁段階ですでに弁護人となることの依頼を受け、私から大塚さんに弁護団長を要請していた関係から、後房一氏の無期刑が確定すると再審申立となって日弁連への援助申立となり、大塚さんがすでに団長になっており再審委員会委員長になってもらった。
 かくて、私の3件目の再審事件である。この時一度に3件の再審を抱える弁護人となった次第。
 島田事件で、従来アリバイが中心的論点だったが、新証拠としての起爆材が欲しい。そこで胸部や陰部の損傷凶器(自白では抵抗する女児を抑圧するため、石で殴打したと自白させられていた)について法医学者の鑑定を追加して行く方針を強調した。その経緯を補足しておこう。警察の解剖医は、被害者の傷には生活反応がないので、死後の打撃だと鑑定し、自白と対立していた。警察は、時の権威者 古畑種基氏を頼り、同氏は幼児は生活反応が無く革皮様化していても矛盾はないと自白を支持した。この古畑鑑定をいかに崩すかが課題となっていた。要するに、新たな法医学者の見解を求めていたのである。私はさらに河原に残された足跡痕(証拠は石膏)と赤堀氏の足跡が一致しない点を追究し、足の裏博士と言われていた平沢彌一郎氏(東京工大教授)の見解を手に入れた。
 江津事件では奇怪なことが多々あった。まず大阪の細見茂氏(18期、八海事件以来の旧知の間柄)から、彼が弁護人となっている被告人から凶器を知っていると情報がもたらされ、その情報にもとづき高野弁護士が大型の火かき棒を発見し、これと被害者の顔面の損傷が一致するとの法医学者助川義寛氏(大阪市大)の鑑定を得た。又、確定判決が認めた犯行日の翌日被害者を散髪したという床屋の親子が現れた。広島高裁松江支部は、これらの新証拠の信用性を認めず再審請求を棄却した。
 再審弁護人となったのは、他に福井女子中学生殺人事件(1、2次)と名張事件(7次)がある。
 いずれも最高裁段階から弁護人となっており、上告棄却後再審弁護人となったものである。
 両事件とも、現地調査にも参加しているが、それ以上の弁護活動はしていない。
 丸正事件を書き落すところだった。
 伊豆箱根鉄道三島田町駅前丸正荷扱所の片手の女店主が殺害された事件で、在日韓国人の李得賢が運転し、鈴木一男が助手をするトラックが店前に停っていたのをタクシー運転手が目撃したというのが2人の冤罪事件の発端である。著名人が応援し、正木ひろし、鈴木忠五両氏が兄、姉を真犯人として告発。2人は名誉棄損罪で有罪判決を受けて、日弁連に委員会が設置された。初代委員長竹沢哲夫氏、次いで谷村正太郎氏(13期、二弁)に代わり、委員は私の他地元の奥野兼宏氏(大学の同級、故人)らであった。静岡地裁沼津支部の再審請求棄却に対し、東京高裁に即時抗告中2人とも亡くなったゝめ、事件は担当書記官からの電話一本の告知で終了となった。
 再審事件での合宿で思い出に残ることを記しておく。
 江津事件では、支援者が合宿先を用意してくれた。山中湖畔にあるさる会社の寮、温泉津の舟宿、松江市内の庭一面が風呂で著名な宿、大山の麓の宿があり、それぞれ地元の馳走が嬉しかった。
 これらの合宿先には大塚さんが自家製の果物を漬けた焼酎を皆んなでいただいたのである。
 再審事件を支えてくれた支援者のうち、出雲の佐々木隆一さん、広島法律事務所(→のちに相良勝美(弁)事務所へ)の三好禎子さんの献身は忘れられない。
 後房一氏は再審請求を棄却されたが、最高裁は同日仮釈放したので、後氏を広島刑務所で引取り、予定されていた出雲の入院先へ案内した。この病院へは、大塚さんと一緒に松江や鳥取の人権大会の時、三好さんも同道して見舞った。
 袴田事件の謎を何点か。袴田さんのパジャマは、当初血痕と油が検出されたと報道もされたが、実際は血痕は虫に刺されたか蚊に喰われたか程度のもの。奪ったとされる現金の小袋が被害者宅や線路上に残っていた怪。奪われた札が逮捕後郵便局に届いたが、油も工場の混合油かどうか不明だった。札の発行番号が焼かれていた怪。さらに、緑色のパンツが2枚在ることが判った。差入れが断られたと言って兄が法廷に持参した。ズボンが履けないのは上田誠吉さんの法廷での袴田さんのズボン装着実験写真で歴然、履けると強弁した2審判決-袴田氏が拘置所で太ったとか、購入時から洗たく等でちぢんだともいうのである-。死刑判決に反対していた熊本典道氏の合議暴露etc
 弁護人は古畑氏の弟子筋の太田伸一郎氏(東京医科歯科大学教授)は通説どおり死後と鑑定した。京大の法医上田政雄氏も同旨であった。
 再度の鑑定人尋問を経て死後説が支持された。
 もう一つの論点として大井川河原に残された足跡痕(証拠上は石膏とその写真)が赤堀氏の足跡に合致するか、であった。本人の足の寸法を計測するため私が仙台拘置所で接見し、透明の接見ボード越しに赤堀氏の足裏を計測した。勿論一致するはずがない。この結果を、足裏博士こと平沢彌一郎氏(東京工大教授)に報告して、現地での実地検証もしてもらい鑑定書を完成してもらった。新証拠として提出したが、裁判所は明白性はなしと評価したのか、採用しなかった。仙台拘置所では、偶然帝銀事件の死刑囚平沢氏に面会に来ていた竹沢哲夫弁護士と会い、すゝめられ平沢氏とテンペラ画で一杯の独居房ごしに面会した。竹沢さんは帰り途、絵を買ってくれば良かったのにと言われた。しかし、時すでに遅し。
 なお、再審無罪が確定したときは、刑事補償金から日弁連の人権基金に寄付してもらうのが通例となっているが、袴田氏がどうなるか興味深い。
 ④最後に、再審とマスコミについて、特徴的であった徳島事件、袴田事件を通じて何点かのことを指摘しておく。
 日弁連が再審に取り組んだ第1号が徳島事件であった。徳島事件では検察のリークによる犯人は冨士茂子さんとの連日の報道である。
 少年店員2人の供述がカギを握っているので、法務省の人権委が調査に乗り出し、検事(内部犯人説、警察は外部犯人説)による供述強要や日弁連委員の調査を何者かが隣室で探るなどしていたことを明かした。
 第5次再審の過程で雑誌記者により外部犯人の存在が明らかになっていたが、弁護団は新証拠として主張・立証はしなかった。
 それこそマスコミの任務だからである。
 袴田事件でも同じ現象となるのかと危惧される。袴田事件でも事件直後の内部犯人説にもとづく警察発表のタレ流しである。再審開始・再審無罪となるやその先陣争いがすさまじい。冨士茂子犯人説のお先棒をかついだ報道がである。
 両事件とも、再審開始・無罪が近付くや、事件直後の報道姿勢とは打って変わって正義の報道に一転する。無罪判決が近いとなるや、あたかも当初から無実の論陣を張っていたかのような姿勢である。かつての報道姿勢への反省や検証作業はその片鱗もないまゝである。
 今また袴田事件でも同じくり返しになりそうである。検証の姿勢は現在微塵も見られない。


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