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おくれた戦中派人間の自分史

お茶の水合同法律事務所  西嶋 勝彦 

1941年1月25日生まれ(同年12月8日日本海軍の真珠湾攻撃で太平洋戦争始まる)
1962年4月弁護士登録(17期)

1.身内の戦争被害
 私のルーツは実父が佐賀は鍋島の支藩多久藩の兼農下級武士(陣内を名乗っていた)、実母は福岡市近郊の百姓家育ち、実母が私を産んですぐ亡くなったので、子のいない妹夫婦の養子となる(養子であることを知ったのは、大学の入学願書提出の時だった)。
 長兄はシベリア抑留帰りだが、生前委細を聞いていなかったのは残念だ。
 旧制中学生だった次男は通学中の駅のホームで米軍機の機銃照射で倒れた。
 三男は私と同様、子のいない実父の弟夫婦の養子となる。
 長女は西鉄の経理畑で働き、後妻を迎えて私と腹違いの弟2人と同居を続けて家計を助けていた。しかし過労から結核を患って入院した上、生来の股関節脱臼に悩まされていた。あれやこれやで婚期を逸していたことは間違いない。戦争の犠牲者といっても過言ではなかろう。
 私は大学の授業料は奨学金でまかなったが、生活費は養父母が苦しい家計から1万円(当時の公務員初任給2万8千円)を送金してくれた。中学時代の友人と同居する自炊生活だった。
 この京王線下高井戸の賃貸の部屋は、修習生時代、17期青法協いしずえの編集会議や読書会の場に供していた(同居の友人は大学卒業後、父の会社経営を助けるべく帰福した)。
 実母と養母の長兄にあたり、長男として実家を継ぐはずだった本人(実母と養母の長兄)は陸軍軍曹で戦死。彼の娘、つまり私の従姉にあたる彼女(父の戦死後母の生家に戻っていた)は、終戦直前の米軍の焼夷弾により殺された。
 養父の関係者にも、戦死者が少なからず居るが省略する。
 私自身が戦火を身近に感じたのは、福岡中心部が米軍機の空襲による花火のように燃えさかる様を近くの高台から見ていたこと、自宅の庭に掘られた防空壕生活の一端を記憶に留めていたことなどである。
 場違いではあるが、ここで、同期の小高丑松さんのシベリア抑留生活を記しておく必要があろう。彼の著作の中に紹介されているが、抑留中にも軍隊の階級が残り、上官から何かの折りに、今一番欲しい物は何かを問われ、間髪を入れず「あんパン」と答えたシーンが印象に残っている。彼は生き残る術としてロシア語をマスターしようと決意し、相応の努力をした。同期で裁判官に任官したY氏が再任されるか危惧していたものだが、無事再任されたことを祝す口実で有志でソ連旅行に臨んだが、現地でも小高氏のロシア語は十分通用した。
 抑留生活を展示した新宿住友ビルの会場やロシア料理店に同行したことも懐かしい。年に数回、彼から私に、「そろそろ・・・を企画しては」と指示が届く。私なりに受け止めて会合、紙誌の発行を企画して同期の諸君にはかる、という流れである。故人となった彼は、きっと苦笑していることだろう。

2.60年安保の頃
 60年安保の前年59年(昭和34年)中央大学法学部法律学科に入学した12組の諸君の多くは、公立の合格発表待ちのためだったらしい。私は単に入学関係費用の準備に手間取っていたにすぎない。外国語別に入学手続が遅れていたためクラス分けされ、私は英語組になったが、この授業の大半はつぶして、私が情勢報告して討論と行事=デモ参加を呼びかけ(尤も一方的であったが)、その間教師は部屋の隅で90分の授業中黙然と座っていた。そして、当日又は他日のデモ集合時間と場所を指示して終わるという次第。
 多くの者は司法試験を目指しており、1年の2学期に一斉に各研究室の入室試験に応募していた。私もさる研究室に応募して合格し、研究室に席(机)が与えられた。デモの指揮と研究室で静かに受験科目の参考書をひもとく、という二重生活である。この研究室の主宰者は元検事M氏で、私に対し、司法試験の改悪反対のデモなら良いが、安保反対デモなどはダメとのたもうた。私はこれを無視して二重生活を続ける。翌年は安保本番である。仲良しのT君は国会前にズラッと並んだ機動隊のホロ仕様のトラックに登って踏んづけて暴れていた。のちに警察官僚となる(刑事畑でオウム真理教担当)T君は直接には坂本弁護士一家拉致・殺害事件について、国会で後手に廻ったことを謝罪していた。
 さて、安保反対の声とデモの列は全国から国会を取り囲み(高校の同級生のI君は、東大教養部の一年生集団の先頭におり互いに「頑張れ」と激励した)、私も何度か構内に入ったが、機動隊にゴボウ抜きされて押し返され、ある時、中から外に向かって投げられた小石が左手の指に当たり負傷した。咄嗟に顔面をかばった結果と思われる。その傷跡は長期に残っていた。
 安保条約が6月15日自然成立した後、三井三池炭鉱の闘いに向かった。周囲には福岡の実家に帰省すると言い訳して、一人大牟田に足を向け、炭労と総評が指導する「ホッパー死守」のスローガンのもとに集結した労働者の隊列に加わった。ここでも機動隊のゴボウ抜きに合うが、その前に警棒で背中を数回殴られていた。帰宅した時、母に背中の棍棒跡を目ざとく見つけられ、私自身負傷の全体像がやっと分かった。数ヶ月痛みに耐える生活が続いた。
 冷静に考えるとき、私を含む学生の応援は邪魔な存在だった。秋口の日比谷公会堂の集会で社会党浅沼稲次郎書記長(当時)が右翼山口少年に暗殺された時もその後も、安保闘争が社会党や学生の力で起きたものと認識されていた世論の多くと同じような反対の誤解にもとづくと言えよう。
 ともあれ、秋から私は司法試験の準備に向かう条件が整ったはずだが、そんなに器用にはいかなかった。自治会の仕事の引き継ぎ(=決別)にも時間をとられる事態が待っていた。半年間位はいわば2本立て興業である。但し、真法会の答案練習は利用することにして3年生の秋からは、この答案練習で足りない判例百選や著名な学説に目を通した。
 その年の秋以降、受験勉強の遅れを取り戻すべく、研究室に通った。しかしその空気になじめず退室届を出して(この時他に2人が行動を共にした。一人A子君は成績がトップだったらしく、卒業式で表彰されており、もう一人のS君は中堅企業のメーカーに就職し、入社早々に労組づくりに取り組んでいた)、一人で受験勉強を続けることとした。選択科目は横井芳弘教授のゼミ(この時の縁で大学に残るよう強く求められる)で一通り学んでいたので労働法を取り、肌が合う政治学に的をしぼった。
 約1年このような生活をつづけ、4年生となった4月からは、答案練習と判例百選を並行して、教科書の補強をした。択一、論文、面接と進み最後の面接では試験官に恭順の態度を示し、あえて論争の類はしなかった。かくて漸く合格発表の日を迎えた次第である。なお、横井教授には、助手の試験でドイツ語が苦手なら俺が教えてやるとまで言われたが固辞して労弁が良いと答えた。

3.労弁から労弁と大型刑事事件弁護
 新人弁護士の就職の実情は、私が在京同期の就職の窓口になっていたので、最後に残っていた事務所のうち刑弁の比重が高い事務所として東京合同法律事務所を紹介されて、応じることにした。確かに労働事件は、埼玉の全国金属の労組のオルグと東京合同の福島等先輩の細い糸でつながっているだけだった。
 ところが入所早々埼玉全金の中核労組の一つ、金剛製作所支部(全員加入)に人員整理が襲った。金ピカバッチの弁護士は登録早々現場に投げ出された訳である。幸いにも金剛労組の闘いは全面勝利に終わり(全員職場復帰とバックペイ)、私も労弁の一角に名を占めることになった。埼玉全金の事件(個人的解雇事件等が多い)は大半に係わるようになった。
 川口市の信和バルブは、偽装倒産で全員解雇となったが、後述の荒井新二さんも加わって解雇無効と工場占拠の無罪をもぎとった。
 全面勝利した足尾銅山25名の解雇(関連企業の2人も)事件(1966~1969年、宇都宮地裁)を失念していた。
 人員整理された全員の解雇を思想信条と不当労働行為によるものと断罪した画期的判決。まるで当方の準備書面を聞く思いだった。裁判長 石沢三千雄氏(故人)は、日光太郎杉事件(行政に太郎杉を切るなと命じた判決)でも著名な人物だった。宮本裁判官と同じ頃簡裁に異動させられたが抵抗を続けた。娘婿K氏は、東京支部に健在である。
 東京合同の上田誠吉、福島等、小生、蓑輪幸氏が担当し、上田さんと私はしばしば解雇組の社宅に宿泊したが、上田さんだけは南京虫に歓迎されていた。住人は抵抗力が備わっていたらしい。
 足尾銅山といえば、鉱毒とハゲ山とともに、天皇に直訴したかの田中正造代議士を想う。古河鉱業は鉱害を隠し続けてきたし、町も同調してきた。
 しかし、事務所は松川事件や諸々の弾圧事件に忙殺されていた。事務所の先例では、1年生は必ず一つの弾圧・えん罪事件をになうこととなっており、私が八海事件(第3次)、同時に入所した宇津泰親さん(17期)が狭山事件を、それぞれあてがわれた。念願の大型刑事事件に出会うことになった。
 因みに、18期不在で19期田中富雄さんは辰野事件(後に狭山事件の弁護人になっていた東京合同の全員が差別批判の観点がない、という解放同盟の指示(?)からか)全員解任されて、その後辰野事件に加わっている。20期佐藤久さんは仁保事件(すでに渡辺脩さんと私が弁護人として活動開始していた)、21期岡部保男さんは白鳥事件、22期の荒井新二さんは大須事件等々である。
 私の八海事件に話しを戻すと、1、2審の死刑(吉岡の4人共犯説供述)に対し、第1次最高裁は広島高裁へ破棄差戻し、差戻審(村木裁判長)で無罪となるや検事が上告(第2次最高裁)して、破棄差戻しとなり、広島高裁で再び阿藤氏死刑他の3名も長期の有罪となって、第3次最高裁に上告したばかりであった。
 第1次最高裁の頃は正木ひろし氏のほか、岡林辰雄さんをはじめ自由法曹団の有志が弁護人に名を連ねている。「真昼の暗黒」などの裁判批判に対し、時の最高裁長官田中耕太郎は「雑音に耳をかすな」とマスコミや全裁判官にも呼びかけた。
 第3次最高裁は、佐々木哲蔵、青木英五郎氏ら、裁判官や検事経験者が取り組んだ。しかし関係者の行動を計算上何分何秒とまで判示するなど非常識な事実認定であるほか、佐々木哲蔵夫妻(当時)が自由法曹団総会に乗り込み弁護依頼をする一幕もあり、岡林、上田両氏のほか、旧所員であった後藤象二郎、正木ひろし、原田香留夫という布陣であった。関西では神戸の小牧英夫氏が中心で山下潔さんら登録直後の18期の諸君も加わった。上田さんが東京のとりまとめは君に頼むと言って直接誘ってきた。
 記録が膨大であることは知っていたが、何からどう手をつけるべきか悩ましかった。根本は、吉岡単独犯なのに、彼の虚言に振り回され、これに乗じた検事の新しい筋書きの作成と関係者の新たな証言づくり(典型が内妻木下ムツ子に対し阿藤氏が獄中婚したことを材料に悪感情を吹き込み、公判で上記の新証言を強要し、旧証言のままだと偽証罪になるとの脅迫も)、原田弁護人への家宅捜索などなり振りかまわぬ再捜査を展開した。
 第3次最高裁の闘いの火は関西から上ったが、国民救援会や総評が支援決定したことで急速に広がった。現地調査、被告人の一人が専従となって全国をまわった。最高裁は第2小法廷係属(裁判長奥野健一)となった。私は記録読みの外、講演活動、現地調査の準備、最高裁裁判官との個人面会の上での要請行動(当時は可能。例えば第二小法廷裁判長奥野健一裁判官に補充書の一部として「世界」掲載の論文=広津和郎、を提出)に時間を割いた。一番時間を取られたのは、東京弁護団事務局(関西は小牧弁護士)として弁護団をまとめる仕事であった。弁護士2年目にして最高裁で弁護する羽目になった。それとは別に弁護人の時間割り当てでは、そうそうたる先輩弁護士の弁論テーマと所要時間、用意する図表などの準備と担当書記官との打ち合わせもあった。(※弁論表は割愛)
 八海事件が勝利して関係団体にお礼を兼ねた報告廻りが待っていた、その過程で、混迷を究めた被告団と救援組織、一部の救援組織の誤った認識による弁護団との亀裂が生じた経緯と修復成った顛末を記しておく必要もあった。
 死刑を免れるために悪友連中を共犯に引き込んだ吉岡のウソの正体と最終段階で告白するに至った彼の心情を追録しておく必要があった。吉岡から伝言を託された隣房者の存在や全員無罪確定後吉岡に面会して報告しつつ彼の心情を探るために広島刑務所に、佐々木夫妻、原田弁護士に同行して吉岡と改めて面会した録音テープの内容は貴重だが、ここでは吉岡の言葉のみにとどめる。「かんにんしてやって下さい」「自分の方には偽証が来ないでしょうか。裁判になるようなことはないでしょうか」「検察がやらせたんだから…」「本当にすまないことをしました」。
 これらの事情から、岡林、上田両先輩から「八海事件18年」(後に労旬社から出版)の執筆をすすめられた。名は推挙でも実態は命令と受け止めるほかない。後述仁保事件との絡みの時には、すでに結婚していたので、妻にそのための八海事件原稿執筆のためにこもるホテルを自宅近くに見つけてもらうことにしたところ、高円寺のラブホテルをやっと確保した。その頃私たちは中央線荻窪駅と西武新宿線井荻駅の中間のバス停四の宮小学校前の1DKのアパートに住んで居た。
 陣中見舞いに来た岡林さんが部屋の四面下半分が鏡張りになっていることが分かり、複雑な表情をしていたのを今でも忘れられない。約1週間で初稿を書き上げ、以後岡林、上田両氏と救援組織の関係者に回覧して一月以内に完成したと思う。
 八海事件の上告趣意作成作業と併行して仁保事件の上告趣意書の作成が重なっていた。仁保事件は、八海事件と同じく山口県(山口市仁保)の事件であったが、住民たちは被告人の岡部保氏の無実を信じていた。八海事件の諸君が無罪確定後八海に戻っても、住民は冷たかったのと対照的であった。仁保事件では上告趣意書の担当は取調べの録音テープ分析であったが、弁護側には完全なテープの反訳がなく、妻は最高裁の主任書記官に同行して反訳業者を訪ねたと言う。
 この外、現場に残された地下足袋痕から月星印の本社(久留米市)を訪ねたりした。又、両事件とも真犯人を知っているとの人物が表われ、片や山口県の某所を訪れ(仁保事件)、片や和歌山県の某所に走った(仁保事件)。両者ともガセであった。
 仁保事件は広島高裁で無罪となり、検事の再上告なしに確定した。その影には一家を上げて支援した主婦小沢千鶴子さん(東京、急性膵炎死―医療過誤訴訟は敗訴に終る)が居た。もう一人広島事務所の事務局三好禎子さん(当時広島事務所)の献身を忘れてはならない。中心となっていた弁護士の佐藤久君(当時東京合同)は、守る会の女子学生と縁を結んだ。

4.波谷事件ほか
 波谷事件は、広島の原田香留夫弁護士が、最高裁段階で協力を求めてきた事件である。すでに弁護人になっていた同期の元検事渡辺淑治氏のすすめもあったらしい。対立するヤクザ組織の頭を殺害した教唆犯として、実行犯の組員とともに1、2審長期刑を科されていた。私は東京に居た親分のアリバイを担当するとともに、実行犯の供述のウソを分析することになった。
 当時、彼は所属する親分波谷氏から離れ、身も心も完全に彼を鉄砲玉として送り出す組が、盛大な送別会を開いて激励していた。親分宅で殺害用の拳銃を渡されたとの供述が、波谷氏を巻き込む唯一のものだった。
 勿論、私は波谷組の本部(拳銃を渡されたという部屋)、殺害現場の武生市内の対立組長経営の店も見た。又、服役中の主犯を仙台刑務所に訪ね、事件の真相を確認して報告書を作成し最高裁に提出した(差戻し後、主犯は証人となった)。
 その頃、徳島再審事件で、東京、大阪、高松などに同行することが多かった角田由紀子氏に私の担当部分を手伝ってもらった。弁護団には原田氏が口説いて元広島高裁長官氏も居た。

 破棄差戻しの最高裁判決により、名古屋高裁金沢支部で審理され無事無罪判決となった。
 なお、波谷氏はバクチ打ちですでに一角の人物と評されていたが、無罪判決によりさらに評価が高まり、私のもとへも獄中を含むその筋の人から事件の相談が来るようになり、刑事事件については受けることもあった。
 一例を挙げれば、前述の渡辺弁護士の依頼で伊勢市のホテル乗っ取り事件があり、名古屋高裁の控訴事件の共同弁護人となり、ホテルの経理を分析することになった。債権者としての主張を展開したが容れられなかった。
 再審の特別抗告は棄却されたが、同日仮釈放となった後房一氏の闘いも忘れられない。大塚一男さんが日弁連の委員会の委員長であったが、高野孝治さんら地元の若手の働きは特筆ものである。
 紙数が尽きたので、死刑再審の島田事件(第6次)、徳島事件(第5、6次)、福井の前川事件(第2次が名古屋高裁金沢支部に係属)、死刑再審の袴田事件(第2次)の弁護活動について記述したかったが、現在袴田事件の主任弁護人(弁護団長)であることのみを記して筆をおく。


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