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歴史のリレーランナー:1945年±77年

南北法律事務所 原田 敬三

 そう、今年は戦後77年。
 明治維新から今年までの年表を作り、二つ折りした真ん中が1945年。
 自分は1944年生まれ。明治維新から144年間の後半を生きていた。
 こう考えたとたんに、小学校中学校の時に「偉人たちが作った」と聞かされた明治維新をひどく身近に感じてしまった。
 「1945年±77年」に何に思いを馳せるかは人さまざま。
 この国で、ある種の平等が実現したのも、明治維新と敗戦。
 前者は身分の撤廃の形で。後者は民公を問わず、無一文に帰す、ゼロになる形で。
 さらに、戦後を四半世紀ごとに区切ると、三個区分。
 大学で「中国語クラス」に席を置いた自分史では、「今年は日中国交回復50年」=戦後個分の2個分の年月=と整理する。ちなみにこの中国語OBクラス会は今年も12月に集まる。
 要するに、今年は十分立ち止まって色々考えるに値する年なのだ。

 では、何故、自分は1945年にこだわるのか。実は、1945年に生じた戦争被害についての訴訟の代理人になり、東京地裁(2007年3月9日提訴)を振り出しに、高裁・最高裁と敗訴した「東京大空襲訴訟」の常任代理人の一人としてのこだわりである。
 社会的には、「東京大空襲で10万人の市民が死亡」の数字が被害の大きさを知る尺度として知られているが、裁判では、孤児となった境遇を自力で克服し、裁判を起こす境遇を得た者、そして障害を一生涯負い続け提訴時点も被害を抱える者、この国で二度と戦争を起こしたくない者らが原告になった。
 原告目線を大事にしたいので、戦災孤児に絞って述べたい。
 出発点でいえば、子どもらは、戦争責任から一番遠いところにいた。同時に戦争孤児は一番の戦争被害者である。
 何よりも、こだわるのは親を失った子どもらに国は一切手を差し伸べなかった時事。
 「東京大空襲訴訟」は、そんなこの国のあり方を人権の視点で問う裁判であった。
 同時に孤児らにとり、生きてきた62年間の人生の軌跡を振り返り語る機会であった。東京大空襲の戦災孤児の戦後史は、社会的出自を隠さなくともよい年齢になったからこそ、語られた。
 これまでも、戦争の被害・悲劇・困苦を訴える書籍手記は多数出版されているが、紹介する2書籍を除き、子どもの視線で子どもに手を差し伸べられなかった事実をは語られていない。戦災孤児は、この国の大人の眼に入らなかったのである。
 「東京大空襲の戦後史」とその言葉どおりの題の岩波新書が毎日新聞の記者の手で著されたのは、ようやく昨年2月である。
 さらに、孤児の境遇に寄り沿って孤児に向き合う纏めた書籍(「戦争孤児たちの戦後史」全3巻 吉川光文堂 浅井春夫ほか編 2022年8月~2022年3月)が発行されたのも昨年のことだ。

 戦争孤児は大人から「援助を受けられなかった」状態にとどまらない。
 上野の地下道で生活していた戦争孤児たちは、保護の対象として意識される「戦争孤児」「戦災孤児」の名称から、いつの間にか「浮浪児」とレッテルを張り替えられ、狩込の対象とされた。
 東京の地上に足を踏み入れた進駐軍(GHQ)にとり、無差別爆撃の跡の焼け野原とおびただしい数の戦争孤児の群れはおぞましい光景であり、浮浪児は目障りでしかなかった。
 東京都は「昭和20年12月15・16日の狩込で2500人を保護収容した。」
 と記録にある。狩込にはGHQの指示による。
 前記「戦争孤児たちの戦後史3」は、「狩込(生きたまま捕獲の意)による強制捕獲方法や檻の中に収容している子どもの姿を写真などで公表することで、戦争孤児に対する社会の集団的記憶と視線を形成してきた」(P76)と分析する。
 本来保護対象とされるべき子どもらは、昭和20年のその年のうちに狩込の対象にすり変わった。(この孤児施策の転換とすり替えがどのような検討を経た結果か、あるいは検討はされなかったのか。さらに施策など始めからなかったのか。これからの研究課題であろう。)
 一度に狩込まれた数千人、数百人を受け入れる施設はどこにもない。トラックに載せて山中に捨てる方法(原告の陳述書)まで取られた。
 このように、官に切り捨てられた戦災孤児の一部は、他方で、民間による人身売買によって社会に吸収されていった(詳細は前記戦後史3 P76)。安寿と厨子王の時代の話ではない。これら売買された孤児らのその後の人生は想像に難くない。
 訴訟の原告になる機会とも程遠い所に身を置き、その後の人生を歩んだであろう。

 国は大多数の戦災孤児の扶養養育は親戚に押し付ける方法で切り抜けようとした。その人生は人間らしさを失うまいと惨絶である。子沢山の親戚は、食料不足の中、新たに甥や姪や孫の養育を受け入れる余地はなく、社会的な強制力で押しつけられた。そのしわ寄せは、その子本人に向けられた。
 都市にあっては無償の女中となり、農村にあっては牛馬と同じ労働力となった。牛馬に学問は不要とばかりに、小学校中学校も通わせてもらえなかった孤児があまりにも多い。成長過程の境遇で、心を失ったこと、表情を失ったことを述べてくれた原告もいた。訴訟の打ち合わせの中で少しは寄り添えたはずである。
 このような境遇と社会的に「切り捨てられた」ことを肌身に感じた孤児らが、成人してからも決して他人にその生い立ちを言わないのは当然であろう。その中であえて「原告」になってくれた孤児らにはただただ頭が下がる。
 原告のひとり金田茉莉さんは、養育先の親戚での生活が影響して栄養失調になり、23歳ころ右目を失明した。しかし「この国は被害者が声を上げないと何もしてくれない」と孤児の掘り起し活動に身を投じた。同じ孤児の働きかけにも口を閉じて語らない孤児らの声集めは困難を極めたという。その集大成の著書『隠されてきた戦争孤児』(講談社 2020年出版)は、吉川榮治文化賞受賞を受賞下したが、選考委員の一人は「このような人生があったことを自分は知らなかった」と率直に述べている。
 この国は、戦争孤児の存在をこの国の良識層である選考委員らの眼からも隠し続けることに成功してきたことを意味するエピソードである。

 再び、空襲訴訟の意義に戻る。
 戦後日本がそれまで日本とされていた台湾・朝鮮半島の(旧)日本人を切り捨てて「復興」を果たして来たと言われる。これが社会通念である。しかし見てきたように、同じ日本人も切り捨ててきたのである。その対象は「天皇の赤子」「少国民」と言われてきた幼児・少年少女らである。いわゆる社会的弱者そのものである。
 加えて、国は「切り捨て」を社会と国民の眼から隠し続けてきた。
 それは成功した。
 そんな国のあり方の転換を求めたのが空襲訴訟であった。
 訴訟は国のあり方に一石を投じたものの世論を圧倒するまでに広がらなかった。
 (ちなみに、民間人に対する非保護の思想は、皮肉にも「国民保護法」に受け継がれている。この法で緊急事態による民間被害は、法的救済対象からは除外されている。)
 空襲被災者が日本という国から「切り捨てられた」歴史は取り返されない。
 ならば、そのように援助してこなかったことを慰謝することが出来得る最善である。裁判で求めた安倍首相の謝罪文章の第1項は、「被告国は、旧軍人・軍属には国家補償をしてきたが、原告ら民間人被害者には、何らの援護・補償もなさず、放置してきたことを深く謝罪する。」である。
 この謝罪は今も国が言わなければならない言葉である。大事なのは原告らがその人生を終わる前に国が伝えることである。
 裁判所は、空種被害の救済は立法課題であり、裁判所の責任範囲内ではない、との人権課題の問いかけを、自らの責任ではない、立法の責任であると突き放してしまった。敗訴により、救済活動は消えるかに思われたが、なんと原告の一人河合節子が「防空頭巾」を被って国会前に立ち通る議員や秘書に立法を呼びかける活動に立ちあがってしまう。
 今から4年半前から始まった「こんちは」活動は、国会会期中毎週木曜日昼に、雨の日や風の日を除いて(雨の日も風の日もではなく!)続けられている。
 救済立法案は、生存する障害者に慰謝料として金50万円を支給するという、国に経済的負担をほとんど負わせない内容である。立法はその経済的側面よりも、この国において、民間の戦争被害(孤児や障害を負った者)に国がどう向き合うか、このまま歴史から抹殺するかどうかのせめぎあいの相を呈している。

 河合節子と共に「こんにちは」活動に立つ浅見洋子の『日本国憲法の理念を語り継ぐ詩歌集』の一文を紹介して終わりとする。

     ―私を日本国民として死なせてください―
    と訴え、百一歳の誕生日に 命付きた杉山千佐子

以 上


 (追加)
 裁判で法的に立法不作為論まで展開したが裁判所を説得できなかった弁護団は、戦後補償の経済的不平等を踏み込んで訴えた。恩給支給はざっと次のようである。
 戦後、軍人軍属に「恩給」の形で合計60兆円が支給されている(本人受給者100万人以上は、昭和40年~平成元年まで。遺族受給者100万人以上は昭和29年~昭和53年までの25年間)。
 恩給制度の特徴として高階級の軍人程高額支給となる。恩給は現職時代の給与が基本ペースとされる(2001年以後据え置かれている旧軍人の仮定俸給を見れば、「大将」は8,334,600円、「兵」は1,457,600円である。)。
 戦犯とされた陸軍海軍の幹部、その遺族にも支給されている。戦後の軍国主義の温存の経済的裏打ちとみるのは自分だけか。


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