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自由法曹団と私

銀座三原橋法律事務所 床井 茂

1 初めに
 私は、今年で弁護士生活66年となります。
 ただ長く生きただけで、ふり返ってみても自由曹団員として誇りうる業績を上げたといえるほどのものはない。
 大学卒業後地方銀行に4年間勤務し、その間労働運動に従事したのち、体を壊し退職、その後に弁護士を目指しました。ただ銀行員としての生活が、弁護士生活に役立ったことはまちがいない。
 1967年4月司法修習を終え、牧野内法律事務所に入所しました。

2 在日朝鮮人の権利擁護運動への参加
 在日朝鮮人が設立した同和信用組合(現ハナ信用組合)に税務当局が強制査察に入ったのが、同年12月です。本店と上野支店に立ち入り調査が入り、帳簿類をすべて押収されました。金融機関史上例をない暴挙でした。
 銀行員としての経験から、この権利侵害運動にたちむかいました。
 この機会が、自由法曹団の錚々たる伝説的なメンバーに知己をえたチャンスとなったのです。上田誠吉先生、森川金寿先生、斎藤一好先生、渡邊卓郎先生、田代博之先生その他著名な先生方に知り合う機会があったことは、私の法曹人生に豊かな実りを与えてくれました。これらの先生方からは、準備書面などで表現の甘い部分や、類型的な部分を、容赦なく指摘されました。
 この同和信用組合事件の教訓が私を自由法曹団の弁護士に育ててくれたと思います。
 その後尾崎陞法律事務所に移籍しました。
 このころ激しかったのが在日朝鮮人に対する1965年の日韓条約締結に伴う「朝鮮籍」者への弾圧でした。上田先生の指導の下、旧入国管理令や、旧外国人登録法の改悪反対運動に従事する一方、国外退去命令に対する取消訴訟の原告代理人に参加しました。
 朝鮮民主主義人民共和国創建20周年在日朝鮮人祝賀団再入国事件への参加
 1968年7月在日朝鮮人12名は、創建
 20周年を祝賀するために、再入国許可申請が提出されましたが、法務省はそれを握りつぶしたまま許否に回答しませんでした。そこで、同年8月近藤倫二先生を団長として、そして不作為の違法確認請求事件を提起し、その後法務省が不許可の決定をしたことで、「不許可取消請求」に変更、3回の審理を得て10月11日原告ら全面勝訴の判決が言い渡されました。同年11月には1回の弁論のみで、控訴人国の控訴を棄却し、祝賀団全面勝訴の判決を言い渡しました。これにより祖国とする朝鮮人民共和国との往来の道が開けたとおもいきや。4年後最高裁は、再入国の利益が失われたとし、訴えを却下しました。この判決には内外から批判を浴び、これを契機にささやかながら往来の道が開けたといっていいでしょう。それまで、在日朝鮮人は、出るに出られず、帰るに帰れないという「籠の鳥」状態が少しずつ解消されていきました。

3 1977年12月事務所を開きましたが、この尾崎事務所に在籍中「韓国籍から朝鮮籍」の書き換え運動がおこりました。その先鞭をきったのが、福岡県田川市で、1971年8月でした。この書き換えにつき、理論的基礎となったのは、森川金寿先生の論文でした。この書き換えにつき福岡県知事の職務執行命令の発動が予想され、この当然法廷闘争に発展されるので、田川市の依頼に応じ急遽弁護団が結成され、尾崎先生が団長で私もその1員に入りました。この事件は、法務省側が折れたので、訴訟にはならずこれをきっかけにして、全国的に書き換えがひろまっていきました。
 当時は1965年日韓条約の締結を受けて、日朝鮮人への弾圧が激しくなりました。つまり「朝鮮籍」から「韓国籍」の書き換えを迫る一方、容赦ない退去命令の発布、外国人登録法を利用した外国人登録証の常時携帯・提示義務の悪用などです。2例を挙げれば、マラソン大会に参加したランナーが走行中登録証の提示を求められた例、風呂屋に行く途中に提示をもとめられた例があります。
 さらに旧出入国管理令に基づく国外退去命令の乱発です。日本で生まれ日本語しかできない在日朝鮮人に出される退令は単に国外追放の意味を持つだけではなく、日本における生活の根拠を失わせ、ひいては生死にかかわる意味を持つものではないでしょうか。
 以上のような事件に自由法曹団の仲間とともにとりくみました。

4 強制連行等の調査に参加
 田代博之先生らとともに、戦前の朝鮮人連行や元従軍慰安婦調査にも参加しました。朝鮮人連行の調査は、在日朝鮮人側調査団とともに、沖縄の日本復帰した1977年8月からです。日本側団長が尾崎陞先生で、その調査はこの年の8月から始まり、10年以上に及びました。私は、この沖縄調査から北海道にいたるまでの調査にすべて参加しました。

5 日弁連人権擁護委員会での活動
 1996年ころから、日弁連人権擁護委員会に所属し、主として在日外国人の権利擁護問題に取り組む一方、沖縄基地問題を主とした日本の安全保障問題にも行動しました。1997年日本国憲法施行50周年を機に、同年第40回日弁連人権大会において、シンポジュウム第2分科会の委員長に就任、主に沖縄基地問題を中心に全国の基地を取り上げました。このシンポジュウムは、「日本の安全保障と基地問題」(明石書店)として発行されました。

6 最後に若い人たちに私の経験を伝えたく  1998年ころ大阪経済法科大学客員教授に就任、数年間「在日外国人の権利問題」を講義したことが思い出として残っております。  以上私の自由法曹団との活動は、弁護士になって数年に限られるかもしれませんが、その後の運動は、多数の自由法曹団の先輩方や同志の活動に終始支えられてきたことは間違いありません。


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