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歴史のリレーランナー

拝島法律事務  盛岡 暉道

 岩崎弁護士と榎本弁護士と話しあい、この「横田基地の爆音をなくす会」が、横田基地の周辺住民にとって、なるほど自分たちにはこういう組織が必要だったな思ってもらえるものであるように、①大阪空港、小松自衛隊基地などの空港騒音反対運動との連絡センター②横田基地への飛行制限の申し入れ、防衛省(当時はまだ防衛施設庁であったが)への住宅防音工事の助成、ゴミ処理場と化している基地周辺の整備の要請③基地の北端部を水道用地が横切っているので美濃部革新都政が行っていた基地内都有地返還訴訟の支援、などの活動もやり、機関紙を出して、これらを宣伝することとしました。
 こうして、「爆音をなくす会」は、横田基地周辺で初めての住民自身による横田基地への抗議運動体として発足し、その最初の活動として、正面から「横田基地の爆音をなくす会」を名乗って米軍横田基地へ交渉にいきました。
 当時、色々な運動体が、その集会決議を伝えるためなどで基地に行っても、基地側はすべてのゲート前で対応して基地の中には入れませんでしたが、私たちの「爆音をなくす会」は、その名前が基地騒音の規制を求める(だけの)運動体であると受けとったのか、思いがけなく、米兵に基地の奥まった部屋に案内され、士官級の担当者が対応して、コーヒーまで出してくれました。こういう和やかな雰囲気の中で、私たちは最近の横田基地は輸送機の発着が以前よりは少なくなったとはいえ、依然として、低空での頻繁な激しい爆音に、夜昼、苦しめられていると抗議をすると、基地側は「そんなはずはない。騒音は低く回数も少ないはずだ」と笑いながら聞き入れようとはしませんでした。
 雰囲気はやわらかでも、そっけない基地の態度にこんな話しあいを続けても意味がないと、短時間で初の交渉は切り上げてきましたが、こちら側も米軍が否定しようもない客観的な記録を持って交渉しなければならないと反省し、昭島市などに自治体が行っている騒音測定記録を住民に利用させることを求めると同時に、住民自身でも騒音を記録すること必要性を痛感させられたのです。
 基地南側の飛行コース直下の昭島市第五都営の自宅で仕事も寝起きもしている金沢顕雄さんは、この基地交渉での米軍士官の発言を誰よりも悔しく聞き、「そし、それでは俺が自分の家の真上を飛行する米軍機は残らず記録してそれを米軍につきつけてやろう」と決心したのです。
 昭島市や東京都や国の記録ではどんな機種の騒音なのかは不明であるが、金沢さんはC5ギャラクシー、C-141スターリフター、民間機、ヘリコプター、戦闘機などが、頭上を通過した瞬間に素早く書き分けられる独特な記号をつくり、それを使って本当に毎日毎晩、記録し続けました。
 この「金沢メモ」は、後に横田基地訴訟の中で使われ、裁判所も文句なしにその正確性を識め、他の基地公害訴訟でも名高い記録として知られ、さらには第2次新横田基地訴訟の原告団長の中島さんが八王子の自覚上空を通過する米軍機を記録して裁判の証拠にする形で受け継がれました。
 「爆音をなくす会」は、防衛施設庁の民家住宅防音工事案では、騒音の激しいW95の第3種地域、W90の第2種地域は住宅移転の補償のみとし、騒音のより少ないW85の第1種地域だけに住宅防音工事をするというもので、これでは基地の南北の昭島市や瑞穂町は、第3種地域、第2種地域の住宅が無くなって第1種地域の住宅が残り、空洞化で東西の分断されしまうと交渉して、施設庁に見直させる成果を上げて、これを大いに宣伝し、市民にその存在を知られるようになりました。
 「爆音をなくす会」が、活動して1年ほどの1975年、横田基地への沖縄・嘉手納基地から中型輸送機c130ハーキュリーズ16機の移駐が通告され、同会を核に基地周辺住民が移駐反対市民連絡会議を結成し運動を展開したが、移駐を強行されてしいまいました。
 76年、「これはもう裁判しかない」と「爆音をなくす会」を発展解消させて基地南側住民約300世帯で「横田基地公害訴訟団」を結成、わが国初の米軍基地に夜間飛行差し止め、損害賠償の支払を求める提訴に踏み切りました。
 当時は、法学者の間では、米軍基地による被害は「現行法体系で適法行為である限り損害賠償を請求できない」(「日本の基地」潮見俊隆、東大新書1965年刊、p67)とされていたのですが、既に大阪国際空港訴訟は2審でも勝訴しており、「適法行為」による被害も賠償しなければならないことが通説となりつつあったので、四大公害訴訟の勝訴を初めとするこの嵐のような公害発展運動の勢いにのって、私たちは米軍の行為もまた国内に従わねばならないと主張したのです。
 提訴当時の弁護団の陣容は、団員130名、団長森川金寿、副団長江尻平八郎、同高橋修、事務局長岩崎修、主任太田雍也、同榎本信行、その他常任弁護団約30名でした。
 この弁護団は、常時約20名の常任弁護団が、約10箇所の訴訟団支部をそれぞれ受け持ったうえ、以後裁判終結までの18年間に、事務局長を岩崎修→島林樹→榎本信行→成瀬聡→関島保雄→中杉喜代司にリレーし、さらに1,2年ごとに2~3名の新人弁護士を加えながら、団結を続けました。

 横田基地公害訴訟の1976年第1次(原告41名)、77年第2次(原告112名)訴訟は、一審で81年に損害賠償のみが認められ、82年に第3次(原告605名)を提訴、87年に第1次・第2次訴訟の高裁判決(損害賠償の増額のみ)、89年に第3次訴訟の一審判決(第1次・第2次訴訟判決の損害賠償額を上回る)、93年第1次・第2次訴訟の最高裁判決(高裁判決通りで確定)、94年第3次訴訟の高裁判決(一審判決通り)に対して原告・国とも上告断念で確定、という経過をたどりました。
 第1次訴訟提訴から第3次訴訟終結まで17年かかったわけです。
 1994年に横田基地公害訴訟団は解散しました。私は、同年の訴訟勝利報告レセプションに出席して、自分が1972年から約20年間取り組んだ結果を振り返り、意外に空しい思いを抱かざるを得ませんでした。
 この訴訟は、弁護団依存の傾きが強く、横田基地周辺の住民たちの中に、自立的な行動組織が生まれないまま闘いは終わろうとしている、そう感ぜざるを得ませんでした。そして、レセプションに参加していた「横田基地飛行差し止め訴訟団」(私たちの訴訟団とは別の原告359名で94年に一審提訴した訴訟団)の島田清作さんから「盛岡さん、そろそろ横田基地の撤去そのものを求める運動をはじめなきゃあならんと思うのですが」と話しかけられ、「確かにそうですね」と同感しました。
 解散した横田基地公害訴訟団の方は、93年に日米合同委員会が横田基地の「夜10時から朝6時までの活動の原則禁止」を決定しながら、騒音被害は少しも減少しないので、94年暮れ、「飛行差し止めまで闘おう」と新横田基地公害訴訟団を結成して、対象を広く南側は八王子市、北側は埼玉県飯能市まで広げて一万人の原告で、米国政府も被告にした提訴をしようとという運動を開始して、96年 に約650世帯2500名で訴訟団を結成して「新横田基地公害」が始められ、現在に至っています。
 私は、この新横田基地訴訟団の参加者を募るため、旧訴訟団の副団長だった福井弥助さんと組んで、今までまったく接触のない埼玉県入間市や飯能市の地域で、訟団の参加を呼び掛けて回りました。
 これもまた、旧横田訴訟の、後藤市議と一緒の爆音なくす会作りの時と同様、大変、愉快な経験でした。
 そして、この新横田の第1次訴訟には参加しましたが、第2次訴訟 には原告にも弁護団にもならず、前記の島田清作さんや、W85の第1種地域以外に住んでいるため新横田訴訟にも参加できない基地反対の住民の人たちとの話しあいをはじめて、2008年4月に“草の根から横田基地の強化反対、撤去を掲げる市民の組織”「横田基地問題を考える会」を、立ち上げました。
 同年8月に、やはりW85の第1種以外の住民が多く住む福生市、羽村市、青梅市、瑞穂町の地域の住民によって、「横田基地の撤去を求める西多摩の会」が結成されたことから、私は、如何に多くの人びとが、騒音訴訟でなく横田基地の存在そのものを拒否する運動の必要を感じていたのかを改めて知りました。
 私たち横田基地問題を考える会(略称「考える会」)と「横田基地の撤去を求める西多摩の会」(「西多摩の会」)の役員が話し合い、一緒に運動をするため、「沖縄ともに声をあげよう 横田基地もいらない!市民交流集会」を、毎年の秋に、福生市の市民会館で開くことを決めました。
 こうして、私たちの「考える会」が主として基地南側の立川市、昭島市の、「西多摩の会」が基地の西・北側の福生市~瑞穂町の地域で、横田基地反対の運動に取り組み、現在に至っています。
 また、「西多摩の会」は2009年4月から、国道16号線沿いの公園「フレンドシップパーク」で、横田基地の撤去を求める座り込みを毎月第三日曜日に実施し、毎回約100人の参加で、もう140回目になっています。私もほとんど毎回参加して、横田基地に関する情勢について、最新の情報を勉強させて貰っています。
 この「考える会」と「西多摩の会」は、連携して横田基地周辺の立川・昭島~福生・羽村・瑞穂などの自治体首長や基地対策担当部署に対する要請や懇談を始めています。
 しかし、“草の根から”の基地反対組織の確立にはまだまだです。そして、この両組織の働き手の高齢化が進んでいて、運動の中堅・若手への承継の課題もつきつけられています。
 長くなりましたが、私が仲間とともに手がけた仕事は、以上のような経過をたどったことを御報告する次第です。


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