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歴史のリレーランナー

拝島法律事務  盛岡 暉道

 私は、静大文理(労働法ゼミ)を出て、名古屋の加除式法律書の出版社、神奈川の民主商工会事務局に就職した後、3年程の司法試験受験生活ののち、1971年に弁護士登録(23期)しました。だから、大学卒業でストレートで修習生になった人とは10年遅れなのですが、若い人たちと同じ気持ちで、青年法律家協会(青法協)に入り、色々な活動に参加させてもらいました。
 実務修習は名古屋だったので、当時、青法協の弁護士が中心の四日市公害訴訟の弁護団会議にも出席でき、そこで始めて大型訴訟の弁護団会議というものの様子を知りました。公害発生源(加害企業)が、中部電力、石原産業、昭和四日市石油、三菱油化などの複数であるので、その責任をどのようにして認めさせるかなどを、野呂汎さんや富島照男さんなど、若い弁護士が自由・活発に意見を闘わせているのに、大変、刺激を受けました。四日市のコンビナート地帯と被害地域の現地には、おそらく弁護団に加わったばかりの弁護士(高木輝雄さん?)に連れて行って貰いました。
 また、四日市市での青法協主催の公害研究集会(の前身集会?)の手伝いもさせられ、そこで溌剌とした青法協議長の佐々木秀典さんや同事務局長鷲野忠雄さんにも接することができました。
 私は、漠然と、労働法ゼミ出身だから労働争議に関係する弁護士になるのだろうぐらいに思って労働事件の方に関心を寄せていたので、このような公害闘争、公害訴訟の世界があることを始めて知り、大いに影響されてしまいました。
 折から、四大公害訴訟の住民側の勝訴が続いて、青法協はじめ民主的な弁護士の間の公害関係弁護団の勢いは「あたるべかざるもの」があったといえます。
 だから、私は、1971年に立川市の三多摩法律事務所に入って、すぐに、「立川公害を考える会」の会員になって、六価クロムによる土壌汚染・水質汚染問題に取り組んだりしていました。
 1972年、三多摩法律事務所に入所二年目だったと思います。立川市の隣の昭島市の共産党市議の後藤充さんから、米軍横田基地の騒音問題で、大阪国際空港のように訴訟をしたいという相談が持ち込まれました。
 事務所では、公害がらみだから盛岡もその相談に乗るようにといわれて、私は立川市の隣の昭島市の横田基地の騒音地域である「堀向地区」に行ってみました。そこは、かつて昭島市のもっとも繁華な商店街であり、住宅街であったのが、極度の騒音のため、集団移転した後で自転車店、魚や、ガソリンスタンドなど3,4軒の商店と1,2軒の住宅が残って、あとは所々に住居跡のコンクリートや枯れ草ばかりのところでしたが、後藤さんからそんな説明を聞いていたら、いきなり大型輸送機がもの凄い爆音をたてて低空を、すぐ近くの横田基地の方へ降りていき、驚いてしまいました。あれはC-141スターリフターという米軍機で、一年前までは、旋回飛行をくりかえすF-4ファントム戦闘機の騒音が、C-141よりももっと酷く、住民の殆どが移転せざるをえなかったのだと教えられました。
 私は事務所会議で、騒音被害の様子を報告し、川口巌、仁藤俊一、私の三人が担当して、横田基地の騒音公害訴訟を始めることに決まりました。私は、大阪国際空港訴訟が一審で勝訴したこともあり、大阪空港訴訟弁護団から資料を取り寄せてやればよいだろうぐらいに考え、後藤さんたちに原告になる人たちを集めるように云ったりしました。
 ところが、これを知った団本部にから呼び出されて、豊田誠さんたちからだったと思いますが、「一体、何を考えているんだ!」と厳しく批判されました。名古屋修習であれだけ集団訴訟の原告団、弁護団のありようを学んでいながら、これはまったく「何を考えているんだ」といわれて当然の無責任な振る舞いでした。
 私は、自分の頭で考えることが苦手で、人様のやるようにやればよいだろうという悪癖があることはわかっていたのですが、ここでもその失敗をやってしまったわけです。
 とにかく一からやり直しと決心して、住民の人たちと話し合う、またできるだけ多くの弁護士の弁護団を作る作業が必要なので、同期で風早法律事務所に入って、既に百里基地訴訟などに取り組んでいた岩崎修弁護士や、私や岩崎さんと同年で、立川に住み、尾崎陞弁護士の事務所や東京法律事務所で長沼事件など基地訴訟弁護団員になっていた17期の榎本信行さんに相談して、手広く多数の弁護士に呼び掛けることにしました。
 私は、住まいも事務所も横田に近い立川なので、現地での基地被害調査や住民への働きかけは私、弁護団のオルグは榎本・岩崎ということにして、原告団作りと弁護団作りに取りかかりました。
 私は、主として基地南側の「堀向地区」の後藤市議やそこの自治会役員の松井仁さんたち数人を中核として、基地の南転西側に一寸外れている福生市福東地区、基地南東で基地に直接接している騒音の最激甚地の立川市中里地区、これらの地域の反対側の基地北側で飛行直下の瑞穂町の地域などで、騒音問題で横田基地と国に抗議する住民組織を作ろうと呼び掛けて回りました。どの地域でも共鳴する人がでて、半年ほどで、「横田基地の爆音をなくす会」を発足させることができました。
 この現地周りの仕事は、殆ど毎日、しかも夜遅くになってしまうので、私は、いっそのこと妻と3才の娘の昭島の堀向に引っ越してしまおうと思い、それでも騒音地帯だから、妻と娘が夜眠れなくて困るようなことがあっては自分勝ってになるので、その堀向に後藤さんたちが用意してくれた私の引っ越し先の元都営住宅の木造平屋建てに、三人で一泊してみました。すると、この騒音地帯で夜眠るのは初めてで、私はどんな騒音で米軍機が来るのかと緊張してなかなか寝付けなかったのに、妻と娘はすぐに眠ってしまい、午後9時過ぎ、二三度、米軍機が通過しても、一度も起きませんでした。私は、この彼女たちの様子を見て、1973年の12月末に、その堀向の元都営住宅に引っ越し、住民登録もして昭島市民になりました。
 そして、ただ訴訟準備のために移住した弁護士というのでは住民の人たちから浮き上がった人間になるので、地元の自治会(八八会)に入って、その役員にもなり、八八会がやる夏祭りで、御輿担ぎや夜店での焼きそば作り、盆踊りなどにもどんどん参加して、みんなと親しくなりました。

(次号へと続く)


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