〒112-0014 東京都文京区関口一丁目8-6 メゾン文京関口 II 202号
TEL:03-5227-8255 FAX:03-5227-8257

歴史のリレーランナー

あかしあ法律事務所  平山 知子

 支部ニュースには、昨年4回(4月号、5月号、6月号、9月号)」にわたってすでに、書きたいことを書いてしまったので、もう書くことはないかと思っていた。でも、読み直してみたら、私が「生き方としての弁護士」という提起をしていながら、団員弁護士としての56年間、具体的に何をやってきたかあまり書いていないことに気がついた。もっとも古希の時にいろいろ書いたなあなんていう記憶もある。
 1966年4月に松本善明法律事務所(現・代々木総合法律事務所)に入所した初日の仕事が逮捕された学生への接見。当時春闘の真っ最中。春闘となると、労働者や支援に駆けつけた学生などが刑事弾圧に遭うことが、当たり前の時代だった。新人弁護士は「サツまわり」(刑事弾圧事件弁護のために警察を駆け回ること)が任務だったのである。こうして私は刑事弁護をかなりやることになる。全建労、全国税の国家公務員労働者への刑事弾圧事件は、松本善明法律事務所の寺村恒郎団員から薫陶を受けながら必死に取り組んだ。無罪を勝ちとることはできなかったが、労働者の闘いの素晴らしさや、彼らの人間的優しさなどを学ぶことができた。
 無罪判決もある。代々木病院の副院長であった中田友也医師が、1965年の参議院選挙の際、4件の戸別訪問をしたと、公選法違反で起訴された刑事弾圧事件。新人弁護士として弁護団に入れていただいてから、全力で取り組んだ。全65回の公判中、24回公判までが、公訴権権乱用による公訴棄却を求める審理に、その後の公判は無罪の主張・立証の審理に充てた。判決では、公訴権乱用は認められなかったものの、9年間のたたかいの結果、いわゆる「個々面接」として晴れて「無罪」を勝ち取り、検察側も控訴できず、一審で確定した。
 他に国選・私撰を問わず沢山の刑事事件をやらせていただいた。いわゆる弾圧事件ではない市民的刑事事件で、今度は私が主任弁護人になり、2件の無罪を勝ち取り、これまた、一審で確定させたこともある。刑事訴訟法の原則そのままを駆使できる貴重な経験であったと思っている。
 また、あの中国の文化大革命時代に、「紅衛兵」を名乗る中国の暴力留学生らによる、日中友好協会本部事務所襲撃事件、日産自動車とプリンス自動車が合併したとき、当時非常に力の強かった全金プリンス労働組合をつぶすための、日産の第二組合を使っての卑劣な攻撃は、暴力事件にまで発展し、その弁護活動にも参加した。告訴・告発も多かった。
 いずれも現場での迅速な対応と証拠の保全、そして仮処分の連続申立である。今は亡き坂本修団員や山根晃団員など多くの先輩達に徹底的に「現場主義」や「全体を見ながら依頼者の目線で方針を考える」ことを教えられた。
 そして東大闘争への弁護団としての参加も貴重な経験であった。
 このように私は、最初から「家裁弁護士」であったわけではない。むしろ「刑事弁護人」として鍛えられたというように思う。そしてそれらがいずれも、マスコミに報道されるような事件ではなかったことである。当時労働組合の刑事弾圧事件などは、まったくマスコミに取り上げられることもない。また、小さな市井の市民の刑事事件で無罪を勝ち取っても話題にもならない。
 私が、弁護士として記者会見なるものに出たのは、先日東京地裁で「引き出し屋に対する損害賠償を認める」との判決があった事件を、3年前に提訴したときが始めてのことであった。
 前記のような、現実に暴力が飛び交うようなアブナイ現場を飛び回るような活動スタイルは、3人の子どもの母親になってしまったら、当然できるわけがない。悩んだり、いらついたりしながらも、「子育て」というまた素敵な体験を経て、私は私らしい「生き方としての弁護士」の活動スタイルを、変化させていったように思う。
 子育て真っ最中の時に、共産党の衆議院東京一区で候補者になった体験は、私の弁護士活動の中ではイレギュラーなものと思ってはいるが、これもまた得がたい体験であったと言える。おそらく候補者活動中やその後に書いた『女の事件簿』シリーズがきっかけとなり、私はだんだん「家裁弁護士」にシフトしていったように思うからである。  私は、今この年齢になり、20年前の突発性難聴以来左耳の聴力を完全に失って、片耳だけで奮闘していたが、今やもう、右耳も風前の灯火に近くなっている。残念ながら、法廷活動などもできなくなってしまった。
 それでも、その右耳を使って、依頼者からの電話による、まるで人生相談のような相談、一人暮らしの人に対する「生存確認(?)」的な毎日の会話など、「カウンセラーか」と思うような活動を続けている。頼りにしてくれる人がいる以上、私は、やめられないのである。
 こうして私の56年間の弁護士活動を振り返ってみると、決して華々しいものではなかったが、町の弁護士(町弁)として、その任を何とか果たしてきたと言えるのではないかと思っている。
 弁護士になったばかりの時に扱った事件の依頼者の娘さん(今や老年に達している)はじめとして、二代にわたって、依頼者となり、おつきあいを続けている人たちが少なくない。
 私は、やはり「人間が好き」なのだと思う。法律事務所に来る人々は、それこそ欠点丸出し、人間の嫌な面も十分見せてくれる。それはまた、私自身にもあることなので、妙に納得してしまうことも多い。
 でも、私は「変節」は大嫌い。
 一旦、こう生きたいと思った信念や思想を曲げることは、したくない。
 60年安保闘争に参加して、得たものは、今も私の心に燃え続けていることだけは、間違いない。
 「生き方として弁護士」を、周りのみんなに「老害」にならない程度(その判断さえできなくなったときのことが一番心配だけど)に、続けたいと思っている。


ページの
先頭へ