自由法曹団 東京支部
 
 
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若手弁護士へのメッセ−ジ

東京中央法律事務所 金井 清吉

1.私が弁護士になったのは、1974(昭和49)年4月です。
 前年のオイルショックで、物価が何倍にも跳ね上がり、賃金の上昇が追いつかないという状況で、前年からこの年の春闘にかけて官公労も含めストライキが続発していました。そのストライキも「ゼネスト」で、民間会社ばかりでなく、鉄道・バスなど交通関係も一斉に止まり、研修所の終了式も4.11スト当日で結局なくなり、各人が都合のつく日に修了証書を取りに行くという状態であったのです。特に、4.11〜13は公務員も休暇闘争を組み、学校なども休校になったところが多かったのです。
 私は、法律事務所に入所していましたが、4月11日出勤できないので、自宅で子供と遊んでいたところ、日教組で公務員法違反で警察のガサ入れがあった、すぐ出勤せよと呼び出されタクシ−で駆けつけました。弁護士業務の最初が日教組の刑事弾圧事件でした。当時は都内団事務所からも1名が出て、全国の県教組に張り付いて、警察からの呼出しと調書対策や、組合員逮捕阻止などの行動に入ったのです。 最終的に私は、岩手県教組へ行き、7日間ほど弾圧対策で岩手各地を回り教職員を集めては、警察にどう対応するか説いてまわりました。そして、全国で岩手も含む4県の県委員長が逮捕され(準抗告の申立)、岩手も起訴されその後は裁判で、地裁(無罪)高裁(無罪)最高裁(破棄差戻)、高裁(罰金)、最高裁(棄却)(1996年)と22年間この岩手の刑事事件を最若手弁護士の一人として担当することになったのです。付いた弁護士は9人でしたが、ここで我々が刑事弾圧とどう闘うのか教えられました。

2.刑事事件では、私が入所当時事務所で大森勧銀殺人事件(一審有罪)の控訴審が、門井弁護士が中心となって取組まれ、これにも誘われて参加し、8年間「冤罪事件」の戦い方を学ぶことになります。これも高裁で無罪を勝取り、最高裁(上告棄却、1982年3月)で無罪が確定した事件です。
 この頃、所謂鹿児島夫婦殺人事件の、二弁の国選で上告審弁護人に選任されました。鹿児島県鹿屋で夫婦2人が殺害された殺人事件で、被告人は一審から無罪を主張しても認められず、その上告事件でした。選任されたのは1980年5月頃です。この事件はアリバイが一審から問題になっており、かつ物証が殆どない。僅かに被害者女性に付着していた「陰毛」だけでした。当時はまだDNA鑑定はなく、目で見て同一か否か等を鑑定していたのです。上告趣意書提出後、保釈申請したら最高裁でこれを認めてくれ、1982年に高裁有罪を破棄・差戻となり、福岡高裁で戦うことになりました。結局1986年4月に無罪となり、これが確定しました。相手だった検事から、おめでとうという電話を戴きましたが、しかし警察捜査・起訴検察官の責任を問う国賠事件を立上げ、1993年地裁勝訴、97年高裁勝訴(県・国両者)で確定しました。しかし、この裁判の途中で被告人とされた原告は、自宅を放火?され、そのショックで亡くなってしまいました。冤罪事件の根の深さを痛感させられた事件です。なおこの事件は、その後司法研修所の教材となり研修開始前に刑事弁護資料として配布して、感想文を提出させ、その後講師に呼ばれ講演をする慣習が何年か続きました。

3.労働者救済の労働事件もこの間続いていました。教育現場が多いのですが記憶に残るのは、湘南工大の教授昇級拒否事件で、組合員の三人の助教授を差別して教授に昇任させないという事件を神奈川地労委、中労委、地裁・高裁と戦い、教授と同等に扱うという命令が確定した事件です。この大学の理事長・学長は糸山英太郎氏で、この戦う3教授の自宅に臭い生ゴミが投げ込まれる等という、事件も発生するような事件でしたが毅然と戦うことが大事であると痛感させられました。また当時総評の、最低生活費非課税を掲げた「減税裁判」や固定資産税評価違法等を戦ったことも記憶に鮮明です。十分に述べきれません。

4.やはり、若い弁護士は体当たりで、これはと思う事件に全身で入っていくことが大事と思います。若い内でないとなかなかできないことです。若いからこそなに事も畏れずに進めることができるし、また先輩達と一緒になって苦労することから、勉強になり扉は開かれるのではないかと思っています。

 
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