若手弁護士へのメッセージ
旬報法律事務所 徳住 堅治
愚直な誓いと遺物
弁護士の出発にあたり、2つの愚直な誓い「浮気しないで生涯労働弁護士として終える」「銀座で美味しい酒を飲み続ける」を立てた。内定予定の友人に替ってもらい、誓いが実現できそうな旬報法律事務所に入所した。とはいえ、労働法の素養は全くなかった。大学紛争に巻き込まれ、石川吉衛門先生の労働法の授業を全く受講せずに卒業した。事務所の先輩からジンツハイマー「労働法原理」(ワイマール時代の名著。最近出版の西谷敏「労働法の基礎構造」でも基本書とされる。)を推薦されたが、難しさに恐れをなして断念。年末に山に篭って片岡昇「英国労働法序説」を読み、沼田稲次郎「運動としての労働法」、窪田隼人「労働裁判」を続けて読んだ。労働運動優位の知見を得た。
昭和49年は労働争議・不当労働行為救済申立の戦後最高件数の年。昭和48年に弁護士登録して直ぐに集団的労使紛争に巻込まれた。同時に労働裁判にもろに影響が出てきた司法反動化とも対峙した。バッジのない入所直後に全逓労働者の逮捕・拘留事件の対処のために熊本に派遣され、勾留理由開示裁判直前に釈放を勝取る僥倖を得た。連休明けに東京に戻ると7名の全逓労働者の逮捕・勾留事件を1人で担当した。警察の接見妨害に苦しみながら面会を繰返した。刑事弾圧事件等で3件の無罪判決を得たのも思い出である。
青法協の活動スタイル「事実を大切に・現場主義」「依頼者の要求にとことん寄添う」に当時"洗脳"されていた。入所直後に、福井で機械メーカーが倒産し労働組合が工場占拠する事件が起こった。組合(全金)は、会社倒産の原因がメインバンク福井銀行にあるとして、同銀行を被申立人として東京都労委に救済申立をした。先輩弁護士達は、雇用主でない銀行を相手にするのは論外であるとして受任拒否したので、私1人で受任した。苦戦の連続であった。何度も福井に通い、"運動"によって何とか解決した。実は、この事件の争点は、今日でも労働分野のテーマの一つである"労組法7条の使用者概念拡大"である。その後私の研究テーマである企業組織再編・倒産と労働の契機となった。金属労働者のたたかいのために秋田・岩手・宮城・静岡・長野・金沢・熊本など全国行脚の日々が続いた。昭和50年には、男女差別定年制(男57歳、女47歳)めぐる「伊豆シャボテン事件」東京高判で勝利判決を得た。組合分裂・右翼介入により組合員のみ賞与不支給の「三島・電業社事件」では、組合員460人について総額1億数千万円仮払いの仮処分決定を得た。「仮処分決定に理由は必要ない」と裁判官を大胆に説得し理由の記載ない決定だった。昭和51年には、整理解雇(10名)の東京スピンドル(秋田・若美町)事件で不当労働行為救済命令を得た。昭和54年には、整理解雇(73名)の北斗音響(岩手)事件で全員解雇無効の判決を得て東京本社の商品を差押えた。この判決は、整理解雇第4要件の先例となっている。
昭和48年最高裁は、全農林警職法事件で公務員のスト禁止を合憲とする逆転判決を言渡した。最高裁は、思想による採用差別を合憲とする「三菱樹脂事件」、公務員の政治活動一律禁止を合憲とする「猿払事件」、施設管理権万能の考え方から職場活動を排除する「国労札幌地本事件」、過度の職務専念義務論に基づく「ホテルオークラ事件」など不当判決を出し続けた。"徒党を組む労働者の活動を抑え込む"とのイデオロギーがベースとなっている。司法反動化時代の労働分野の不当判決は、若い世代で乗り越えてもらいたい遺物である。