若手弁護士へのメッセージ
東京あさひ法律事務所 鈴木 堯博
「百聞は一見に如かず」
私が弁護士登録をして旬報法律事務所に入所した直後の1972年4月、事務所の豊田誠弁護士に同行して、高崎市のスモン患者Sさん宅を訪ねた。
Sさんは、幼児を育てている若い母親だった。胃腸の不調を治すために病院で整腸剤キノホルムを処方されて飲み続けていたところ、その副作用で足がジンジンする痺れで麻痺し、やがて松葉杖なしには歩けなくなった。
夜中に子供が喉の渇きで泣き出したときが辛いという。会社の残業で疲れ切って眠っている夫を起こさないように気を付けながら、寝室から勝手口まで這って行き、水道の水を入れたコップを子供のところへ持ち帰ろうとするが、這いながら手に持つコップの水はこぼれてしまう。同じことを何度も繰り返した揚句、コップを自分の口にくわえて四つん這いで移動し、こぼれて残り少なくなった水を辛うじて子供に飲ませるのだという。
母が子供に水を飲ませるという一見何でもないことが、Sさんにはできない。私は、Sさんの話を聞きながら、勝手口から寝室までの距離5メートル程の床をじっと眺めた。水の入ったコップを口にくわえ動物のように四つん這いになって必死にコップを運んでいくSさんの姿が目に浮かんだ。そのとき、人間の尊厳を踏みにじった加害者への怒りが込み上げてきた。スモン患者のために弁護士として自分たちは何をなすべきか、という問題を鋭く突き付けられたように思った。
このスモン患者との出会いは、まさに「百聞は一見に如かず」だった。被害の現場を見ることがいかに大切であるかを学び、これが公害裁判に関わる原点となった。
この年に東京スモン弁護団が結成された。
「公害裁判は被害に始まり被害に終わる」
その後、全国の薬害スモン訴訟が次々と勝利し国民的大運動の展開によって全面解決が実現された。東京スモン弁護団は、水俣病東京弁護団に衣替えをして水俣病裁判に取り組むことになった。そして1984年に東京地裁に水俣病東京訴訟を提起した。
公害裁判を闘うには科学者の協力を得ることが不可欠であるが、水俣病東京訴訟では、患者の立場に立った水俣病研究の第一人者であった故原田正純医師(当時熊本大学助教授)に専門家証人になっていただいた。
その証人尋問で、「先生は、水俣病研究にかくまで深く関わることになったのはなぜですか。」という質問に対し、原田医師は、「見ちゃったからです。・・・水俣病患者を。被害の現場を。」と答えた。この「見ちゃった」という短い言葉に私は感銘を受けた。被害の現場は、これを真摯に見る人に必ず何かを問いかける。そして、実践に向けての原動力になる。
四大公害裁判以来、「公害裁判は被害に始まり被害に終わる」が鉄則とされている。裁判官が被害と真剣に向き合うようにさせることこそ、原告弁護団の果たすべき重要な役割だ。
今、私は福島原発事故被害弁護団の共同代表として福島地裁いわき支部で原発被害者損害賠償請求訴訟に取り組んでいる。この訴訟では、昨年6月以来、原告本人尋問が行われている最中だ。さらに、今年7月、9月、11月と3回にわたり、裁判所の現場検証が原告の被害地域を対象として次々に実施されることになった。
この訴訟で「被害に始まり被害に終わる」を着実に実践するために、原告本人尋問と現場検証を是非とも成功させなければならない。まさに弁護団の真価が問われることになる。
「継続こそ力」
困難な課題に取り組むとき、継続すれば達成できると思うことにしている。私はこのことをマラソンから学んだ。
40歳の時、突然ぎっくり腰に襲われ腰痛症になった。腰痛症を治すためにジョギングとストレッチと筋トレを始め、やがて日課になった。今もほぼ毎朝1時間のジョギングをし、おおむね毎月1回はフルマラソン大会に出場している。今年末か来年初めにはフルマラソン完走250回を達成するだろう。フルマラソンを継続してきたことによって、体力・気力・活力が培われたと思っている。
「継続は力なり」よりは「継続こそ力」の方が実感に合う。これが私の座右の銘となっている。