自由法曹団 東京支部
 
 
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団支部の活動紹介

若手弁護士へのメッセージ

白石法律事務所 白石 光征

 支部ニュースの「若手弁護士へのメッセージ」への投稿を依頼されたとき、一度は、「僕には若手弁護士へ何かメッセージを伝えるような活動歴はないから」と断りかけましたが、私みたいな自由法曹団員もいるということが、これから長い将来、団員弁護士として、そしてまた、団員以前の何よりも職業人としての弁護士として、仕事をしていかなければならない若い人達に何がしか参考になることがあるかもしれないと考え直し、小恥しさを忍んで、この一文を寄せることにしたものです。

  1. メーデー事件の裁判闘争から
     1970年4月に弁護士登録をして(22期)、東京合同法律事務所へ入りました。
     事務所に入ってすぐメーデー事件の控訴審弁護団に″放り込まれ″ました。メーデー事件といっても、今の若い人たちは、名前ぐらいは聞いたことがあっても中味はほとんど分からないと思いますのでごく概略を紹介しますと(そんなの知ってるよという方がいられたらゴメンナサイ)、まず、メーデー事件裁判闘争史の「はしがき」には、次のようにあります。
     「1952年5月1日、第23回メーデーの日に、東京で開かれた中央集会に参加した数万人のデモ隊は、その使用を禁止されていた皇居前広場(人民広場)にむかって行進した。広場では数千人の警官隊がデモ隊にむかっておそいかかり、警棒をふるってなぐり、催涙ガス弾をなげ、つづいて拳銃を発射した。
     デモ隊は潰走した。その一部はプラカードの柄をふるい、石を投げて抵抗した。その衝突は広場の全域から日比谷公園、有楽町、丸の内一帯に及んだ。名づけてメーデー事件という。
     この事件で騒擾罪の容疑により逮捕された者1332名、起訴された者261名に及ぶ。裁判は、1970年1月28日の東京地方裁判所の判決をへて、1972年11月21日の東京高等裁判所の判決により、騒擾罪につき全員の無罪が確定した。事件発生以来、20年余の年月がたっていた。これがメーデー事件裁判であった。」
     では、メーデー事件はなぜ起きたのか。これを理解しないとメーデー事件の本質は分かりません。これも、上記「闘争史」によって概略を紹介しますと…
     戦後初めてのメーデーは(戦前から通算して第17回)、1946年5月1日、皇居前広場で開催されました。以後、1950年まで毎年、ここで中央メーデーが開催されてきました。そのほか大きな大衆集会はほとんどここで開催されてきたために、皇居前広場は人民広場と呼ばれてきました。ところが、政府とGHQは、1951年には、ここをメーデー会場として使用することを許可しませんでした。ほかに中央メーデー規模の集会を開ける場所がないため、第22回中央メーデーの開催はあきらめざるを得ませんでした。翌1952年にも政府・GHQは使用を許可しませんでした。そこで、総評(これも知らない若い人が多いでしょうが、日本労働組合総評議会が正式名称で、社会党系労働組合のナショナルセンターでした)は、使用不許可処分取消の行政訴訟を提起しました。これについて、東京地裁(裁判長新村義弘)は4月28日、中央メーデーのための使用は皇居外苑の本質に適合する、使用不許可は集会等の自由を保障した憲法21条に違反する、として不許可処分取消の判決をしました(判決全文を読むと、新憲法下での裁判官の気概というものを感じます。)。この判決の宣告は、講和条約の発効によって日本が「独立」したその日になされました。独立した国民の権利意識に強く訴えたことはいうまでもありません。人民広場を要求する大衆は、この判決によって一層法的確信をかためたのでした。しかし、政府はこの判決に服せず控訴して判決の確定を阻止しました。実行委員会は、やむなく会場を明治神宮外苑に移して、第23回メーデーを開催しました。こうして、人民広場は、人民大衆の手から奪われたのでした。
     メーデーは、破防法反対ゼネストの盛り上がりの中で、「再軍備反対、民族の独立を闘いとれ、低賃金を統一闘争で打破れ」の中心スローガンで盛大に行われました。大会決議の中に人民広場開放決議もありました。デモ行進は、いくつかのコースに分かれていましたが、そのうち、日比谷公園を解散地点とするコースを行進してきた参加者の一部は、「アメ公帰れ」「ヤンキーゴーホーム」などと唱和しつつ、そのまま人民広場に行進しました。それは占領軍の撤退と民族の独立の要求であり、占領支配弾圧にほかならない広場使用禁止に抗議し人民広場を取り戻すことでした。そして、そこでもう一度、メーデーを祝福しようということでした。
     しかし、時の権力はこれを許しませんでした。メーデーにおける統一と団結が人民広場へ行進することによって一層固められ、労働者階級を中心とする大衆運動をさらに大きく前進させるならば、侵略と人民抑圧のサンフランシスコ体制の前途は危うくなる。サンフランシスコ体制の出発点において、つまり1952年5月1日というその日に、高揚する運動は粉砕されなければなりませんでした。ここに、騒擾事件をつくりあげる政治的必然性があったのでした。メーデー事件は、まさに、政治的弾圧事件でした。ここに、事件の本質がありました。警官隊の攻撃がいかに残虐であったかは、2人の20歳代の青年を殺し(1人は後頭部を警棒で強打され5日後に死亡、1人は拳銃で射殺)、1千数百名に重軽傷を負わせたことに示されています。
     この日、警官隊のデモ隊に対する攻撃は、大きく2つの段階がありました。東京地裁の第一審判決では、第1段階の警官隊の実力行使は違法であり、騒擾罪不成立としましたが(約半数の被告が無罪)、しばらく時間をおいた第2段階では警官隊のデモ隊排除活動は適法であり、騒擾罪が成立するとしました。そこで、被告100名全員が控訴し、東京高裁において第2審がはじまったのでした。(騒擾罪《現代語化により今は騒乱罪》は大衆集会参加者を一網打尽にできる大衆運動弾圧の機能をその本質とするものですが、詳しくは紙数の関係で割愛します。)
     メーデー事件弁護団は、第一審では、上田誠吉・石島泰・松本善明・中田直人・坂本修・安達十郎・新井章さんら12人の弁護団体制でしたが、それを第二審では拡大することになり、6人の若手(菊池紘・原田敬三・熊谷悟郎さんと私と同期では飯塚和夫・松本津紀雄さん)が加わり、総勢18名で控訴審に臨みました。控訴審は、1972年11月21日、第2段階での警官隊の実力行使を違法と断じ、騒擾罪不成立、その関係被告の全員無罪を言渡しました。この無罪判決は、12月初め、検察庁に上告を断念させることによって確定し、ここにメーデー事件裁判闘争は、事件発生後20年7か月を経て、完全勝利で幕を閉じたのでした。
     私のメーデー事件弁護団としての活動は、裁判闘争に限れば2年7か月と短期間でしたが、本当に密度の濃い(仕事の大部分はこれに充てられていたように思います。)、貴重な経験をさせてもらいました。ここでは2つのことだけ触れておきたいと思います。1つは、事実の論証ということについて、もう1つは、弁護団事務局というものについてです。
     (1)控訴審弁護団の最初の大仕事は、控訴趣意書の作成でした。何回かの弁護団会議を経て執筆分担が決められ、私は、上田さんと事務所がいっしょなので執筆分野も同じ範囲がいいだろうということで一審判決が騒擾罪が成立したとするその時点の直前のデモ隊の状況と直後の警官隊とデモ隊の「衝突」の真相の究明を上田さんと担当することになりました。上田さんは重複しないように私に具体的に執筆範囲を示され、合宿(一番長いときが2週間)では同じ部屋で、文字どおり上田さんの驥尾に付す形で作業しました。そこで上田さんが操った手法は、徹底的に客観的証拠、特にニュース映画フィルムによって、事実関係を究明するということでした。メーデー事件では、たくさんのニュース映画フィルム、写真が証拠採用されていました。映画フィルムを手回しで速度を自由に操って見られるビュアーという機械を使い丹念に一場面一場面を繰り返し見、それだけでなく、その一コマ一コマを現像してアルバムに貼りつけてルーペを使って分析し(アルバムは何冊にもなりました)、警官隊の動きとそれに対するデモ隊の反応を明らかにして、一審判決の事実誤認を完膚なきまでに論証したのでした。同じ分野を担当した私も当然、自分に割り当てられた部分の執筆にそれらを活用しました。ただ漫然と映画フィルムを標準速度で見ていた初めのころは、おーなかなかすごい衝突だなあという印象が強く、一審判決の事実認定をどう覆していったらよいのか、なかなかとっかかりがつかめませんでしたが、一コマ一コマを丹念に追っていき、かつ、証言とあわせて検討していくと、デモ隊からは攻撃する姿勢はないのに警官隊が解散措置との名のもとに先制攻撃をしかけ、それに対し、デモ隊は部分的に抵抗しつつ瞬時にして後退、遺滅、敗走していく様子が明らかになったのでした。有罪の根拠とされた証拠は、実はたいへん脆く、逆に無罪の要素を内在させていたのでした。
     控訴趣意書では、これら現像写真を随所に貼りつけて読む者の理解を助けるように構成しましたが、それだけではなく、法廷では、被告・傍聴人に分かり易い弁論をということで法廷に広場の大きな図面を用意した上で映画フィルムを上映し、その中で重要場面の一コマ一コマをスライドで写しながら弁論しました。これが大へん好評でした。被告・傍聴人に分からなければ裁判官に分るはずがないというのが上田さんの持論で、こういう姿勢は弁護団全体のものになっていき、趣意書の陳述も最終弁論の陳述も、いかにして分かり易い法廷にするか各弁護人が工夫したものでした。
     証拠の厳密にして入念な検討ということと分かり易い弁論ということは、言われてみれば当然のことなのでしょうが、弁護士の成りたての頃に目の前で具体的にこれを学んだのでした。勿論、これは民事事件についても言えることです。
     (2)私は、熊谷さん(現在長崎)と共に弁護団事務局に入れられましたが、1年生で右も左も分からず、弁護団事務局長の中田さんの指示されることをお手伝いするぐらいでした。やがて、熊谷さんなどと弁護団事務局専従になり、少しまわりが見渡せるころには、控訴審の山場にさしかかっていました。
     大先輩が居並ぶ弁護団の事務局に、役に立ちそうもない1年生をなぜ加えたのか、はじめのうちは分かりませんでしたが、やっているうちに、中田さんの意図は、弁護士成りたてで時間的にまだ余裕のある若い者を事務局に入れて勉強をさせ、経験を積ませて、事件弁護団に限らず組織的な活動においては、積極的に事務局を担うようにというところにあったのかなと思うようになりました。中田さんは第一審以来の理論家ぞろいの弁護団の議論をリードして(それには自身、事件全体に精通していなければなりません)控訴趣意書の骨子を組み立て、それに若手をうまく配置し、そして、作業日程を設定して裁判所と交渉して趣意書提出日を決め、それにしたがって、弁護団合宿、弁護団会議を節々に組むという、まさに、弁護団運営の中枢を担っていました。そればかりでなく、被告団(けっこう一家言の持ち主も多かった)や支援団体の会議にも若手事務局や弁護団を伴って小まめに参加し、その意見・雰囲気を弁護団全体に伝え、また、裁判情勢や弁護団の考えていることも分かり易く被告団・支援団体などに説明するという、被告団などと弁護団の橋渡しの役もこなしていました。そして、どのような会議においても、どのような人との接触においても、大へん謙虚でした。その人柄と相俟って、被告団の信頼は厚く、それは即、被告団と弁護団との最後まで揺るぎのない信頼関係の基礎でした。傍らでみていて、弁護団事務局長というもののあり方を強く印象づけられました。
     そのほか、中田さんといっしょに仕事をするなかで(メーデー事件に限らず)、弁護士は、オールラウンドプレイヤーであると同時に、1つ2つについてエキスパートでもなければならないということも教わりました。内野はどこでも守れるがショートを守らせればゴールデングラブ賞をとれるということでしょうか。これは、その後の私の弁護士生活で一つの指針でありました。(中田さんのいいお話は、たいてい、行きつけのお店でグラス片手に紫煙をくゆらしながらの座談のひとときであったように思います。これは蛇足です。)
  2. 住民運動から
     メーデー事件も終わった1973年頃から福島等さん、岡部保男さんと神田地区東北新幹線対策委員会という住民運動団体の弁護団として活動しました。これは、当時すでに上野駅まで開通していた東北新幹線を東京駅まで延長するために新たに高架鉄道を敷設する必要があるということで、神田駅周辺の高架下の土地を借りて建物を所有し、営業と生活を営んでいる200軒近くの人たちが、国鉄(当時)から無条件の立退きを迫られていることに対し、住民が強く反発し、それこそ思想信条を超えて一斉に立ち上がった大きな住民運動でした(この住民運動のなかで地元共産党区議の鈴木栄一さんの果たされた役割には大へん大きなものがありました。)。国鉄の立退請求の根拠は、高架下土地利用は、単なる「使用承認」で借地法の適用はなく、いわば恩恵的に土地を使わせているだけで(だから地代といわず使用料といってる)いつでも無償で立退きを求めることができるというものでした。弁護団は、小学校講堂での大きな住民大会やブロック毎の集まりに呼ばれては、東京駅までの延長については都市交通論の見地から(福島さんが集中的に研究)、高架下土地の利用関係については借地法の見地から、国鉄の主張の根拠のないことを力説し、住民運動の正当性を強調しました。
     この運動に関与するなかで、何か一つエキスパートになること、この運動では、借地法に精通することの大事さを痛感しました。借地法で私たちの生活と営業は守られているんだという法律的確信が、そして、それを一つの裏付けとする正義は自分たちにあるという確信が、住民運動を支える精神的バックボーンになり、そのことが運動が最後まで団結を守りとおせた要因であったと思います。
     この運動は、十数年に及ぶ長い闘いの末(その途中の1983年1月、福島さんと私は堀敏明さんといっしょにお茶の水綜合法律事務所をつくりました)、立退補償金を支払わせ、かつ、新幹線工事完了後は再びもとの場所に戻って建物を新築し所有することができるという大きな成果をあげることができました。高架下に戻ってきた皆さんは、神田高架下借地人組合を組織しましたが(東借連にも加盟)、残された問題は建物新築後の高架下土地利用の法的性質の問題でした。JR東日本(1987年国鉄が分割民営化)の提示した契約書は、「高架下貸付契約書」と題するもので、「借地借家法の適用はないものとする」と明記するなど、国鉄時代の「使用承認書」をやきなおしたもので、恩恵的に使わせるだけだという姿勢は全く変わっていませんでした。住民からは、こんなのは奴隷契約だと怒りが沸き起こったのは当然でした。弁護団は、借地借家法に則った契約書の対案を作成して、十数回にわたって交渉し(時に激しく)、最終的には、借地借家法の適用を認めさせて期間を30年とするなど、組合側の要求どおりの契約条項にして、名称も「土地(高架下)賃貸借契約書」に改めさせ、91年に結着をみました。この場面でも、借地法・借地問題については人事に落ちないという自信をもって交渉に当ることができ、理論的にJR側(途中から弁護士が出てきた)を圧倒することができたのでした。
     神田の皆さんとのつきあいは、こうして、新たな借地関係がスタートしたあとも、時々の賃料(地代)増額問題、2000年にはその訴訟事件(途中調停に移行)と続きました。地代問題はもちろん借地問題の重要部分で、これについてもそれまでの何件もの地代紛争を扱ってきた経験と自信がものを言ったのでした。借地借家問題について、それなりに精通することができるようになったのは、弁護士になりたての頃から、一つの借地借家人組合を受け持ち、その関係で植木敬夫さん率いる東借連弁護団の一員になり(今もその末席を汚しています)、いろいろ教えを受け勉強もした結果だと思います。植木さんは、合同事務所の先輩で(5期)、辰野事件などの刑事事件で顕著な働きをされる一方で、借地借家を含む住宅問題についても造詣が深く運動家でもありました。
  3. 市民事件から
     自分の生活を成り立たせるためには勿論、事務所を維持するためにも、一定の収入をあげなければなりません。その″財政″は、多くの弁護士がそうであると思いますが、一般民事事件といわれるものの比重が大きいと思います。私の場合は、大きな民事事件とか労働事件とかいうものはなく、ごくありふれた市民の事件でありました。もう随分長い間、結果的にそういう事件が大きな部分を占めていたような感じです。いわゆる″まち弁″です。
     市民事件に取り組むに当って(事件一般についていえることだと思いますが)、常に心がけてきたことは、結果より過程が大事ということでした。この事件は、どう考えても勝ち目はないと分かってる事件でも、一生懸命取り組めば、けっこう何とかなるケースもありますし、たとえどうにもならなくとも、「先生、ここまでやってくれれば満足です」と依頼者は分かってくれ、請求しないお金を置いていくことだってありました。結果より過程が大事ということも、合同事務所時代に先輩の仕事ぶりから感得したものですが、たしか、同じような箴言をどこかでみたこともあると思って、中国名言集(岩波)をめくっていましたら、「収穫を問う莫(な)かれ 但(た)だ耕転(こううん)を問え」というのが目にとまりました。清末の有能な政治家・軍事家で優れた文人でもあった曾国藩(そうこくはん)の言葉だとありました。この名言集を編纂した人は、「やみくもに成果をあげようとデータを捏造するなど、今や世は成果主義の悪幣におおわれている。そんな風潮を一蹴し、何をなすべきかを、ずばりと指摘した名言である」とコメントしていますが、この本の刊行は2008年ですけれど、「そんな風潮」は今も全然改まってない、情けない社会に日本は堕してしまったかのようです。
  4. 法律家団体、弁護士会活動から
     オールラウンドプレーヤーたれということは、事件活動についてだけではなく、法律家団体や弁護士会の活動をも視野に入れるべきだという意味もあります。事件に追われてそんな暇はないという時期もありますが、しかし、そういう活動もしなければということはいつも頭の隅において、仕事全体の割り振りを考えたらよいと思います。
     (1)私の場合は、合同事務所の任務配置の関係で中田さんから日本国際法律家協会(国法協)の事務局をやるように言われました。おかげで法律家の国際連帯運動というものを知り、その背景にある国際情勢にも興味を持つようになりましたが、国法協のような小世帯の事務局になると、自由法曹団のような一定の任期がくれば確実に次の人と交代できるということがなく、かなり長く続けざるを得ませんが(今も副会長ということになっています)、そうして一つの団体(法律家団体に限らず)の運営に長い間一定の責任を負うのも弁護士生活を充実させる意味があるように思います。(国法協の活動についても触れたいのですが紙数が足りませんので省略します。)
     (2)私は、弁護士会の活動に実質的に参加するようになったのはたいへん遅く、95年に綱紀委員になったのが最初で(02年に委員長)、以後、紛議調停をはじめいくつもの委員(長)になり、最後は常議員会議長も務めましたが、いろいろやってよかったと思っています(それは、私の所属する二弁向陽会の配慮によるものですが)。それは、″業界″について視野が広がり、会を身近なものに感じ、そして、勉強にもなったからです。特に、弁護士固有の業務という点からみて勉強になったのは、綱紀委員会と紛議調停委員会(今も委員ですが)でした。この両委員会にいると、依頼者というものは弁護士に対してどういうところに不満をもっているのか、事件処理に当ってどういう点に注意しなければならないかなどがよく分かり、教えられることが多かったからです。弁護過誤や依頼者とのトラブルにならないためにも、この2つの委員会は、是非経験しておくとよいと思います。
  5. 団活動について
     お茶の水綜合時代から、団本部や支部の総会をはじめとする団独自の活動には、ほとんどごぶさたを重ねてきましたが(国法協だけは継続してやってきましたが)、団の活動は、機関紙・誌や総会議案書などによってよく分かりますし、自分の仕事とのつながりが薄く、何か報告したりして議論に参加する材料を持ち合せていなかったからでした(参加するだけでも意義はあるとは思いますけど)。団的な事件、活動には直接かかわらなくても(勿論、昨年の国会前集会・デモなどは別)気持ちは団員であり続けたいと思っています。(まち弁団員にはこういう方は多いのではないでしょうか。)
     日弁連の人権大会には、ここ十数年、フルタイム(シンポジウム、大会、懇親会)で参加しています。テーマの選び方、議論の中味など、こちらの方が、正直、私の興味と関心にあう感じがしています。耳学問してくるだけですが。
  6. 日常生活から
     まち弁にふさわしく、98年5月から神田の隅っこに″一人事務所″を構えました。一人でのんびりと思ったのですが、結構仕事が舞い込み忙しく過ごしてきました。しかし、忙中閑あり、91年48歳でゴルフをはじめました。やるからには少しでも上達したいと思い、けっこうコースにも通いました。生活にメリハリができ、仕事に張合いをもたらしてくれました。日がな一日、電話もかかってこない緑の世界で白球の行方に一喜一憂するのは、気晴らしにもってこいでした。ゴルフは、依頼者、特に顧問先との親交を深めたり、弁護士にも知り合いが増えたりなどのほか、いくつになっても歩けさえすればプレーできる息の長いスポーツで、趣味の一つとしておすすめです(お金持ちの遊びというのは今は昔の話です)。(なお、不埒なことを言わせてもらえば、団総会などの折にゴルフコンペでも企画したらどんなものでしょう。日弁連人権大会だってゴルフが公式行事になっているのですから、団が同じことをしたからといって世間から批判はされないだろうと思いますがねえ。)
     2010年、研修所22期の40周年の同期会がありました。出席された私のクラスの元刑裁教官(なんとメーデー事件控訴審の左陪席。東京高裁長官代行など歴任)が、大平正芳元首相がよく揮毫したという「在素知贅」(ざいそちぜい)という言葉を紹介されました。同じような意味がイギリスの詩人ワーズワースの詩句に「Plain living and high thinking」とあるとも言及されました。研究社の「英和」では、「質素な暮らしと高尚な思考」と訳されています。法曹、とくに弁護士となって40年、高度経済成長の波に乗ってそれなりに財をなしたであろうが(私には無縁)、この詩句とは正反対の生活に陥っていないか、暗に自省を求めたものと受け取りました。
     「人は適当の時期に去りゆくのも、また一の意義ある社会奉仕でなければならぬ」と言う先人がいます(石橋湛山評論集(岩波文庫))。含蓄のある言葉だと思います。私が事務所を閉鎖することが「意義ある社会奉仕」などと言うほどおこがましくはないつもりですが、古稀を過ぎた今、知力、体力に衰えを感じ、仕事が遅くなったのは事実で、それが依頼者や関係団体に迷惑をかけることをなによりもおそれています。その意味で、このささやかな一人事務所をうまく誰かに引き継ぐ形で「去りゆく」のも「一の意義ある社会奉仕」になるのかなと考えるこの頃です。
  7. 最後に
     最後に、昨今の私の心境を次の詩に託して、この拙文を終わります。

    「倚りかからず
                               茨木のり子

    もはや ながく生きて
    できあいの思想には倚りかかりたくない 心底学んだのはそれぐらい
    もはや じぶんの耳目
    できあいの宗教には倚りかかりたくない じぶんの二本足のみで立っていて
    もはや なに不都合のことやある
    できあいの学問には倚りかかりたくない
    もはや 倚りかかるとすれば
    いかなる権威にも倚りかかりたくはない それは
    椅子の背もたれだけ
 
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