自由法曹団 東京支部
 
 
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団支部の活動紹介

弁護士活動46年の回顧と若い弁護士諸氏にのぞむこと

旬報法律事務所 清水 洋二

  1. はじめに
     私の弁護士活動は、今年4月以降46年目に入った。
     過去45年間の活動を振り返った時、種々の大規模事件も担当する一方、弁護士会や裁判所等における公職も数年にわたって経験して来た。当初は、まだ総評弁護団(現労働弁護団)の事務局活動も数年間経験したが、自由法曹団の幹事や事務局活動には参加して来なかった。従って、私が団の支部ニュースに文章を寄稿するのにふさわしいといえるか否かは疑問がなくはないが、折角今回執筆の依頼を受けたので、私の46年に及ぶ弁護士活動を回顧しつつ、卒直な感想を述べさせて頂くこととする。
  2. 労働弁護士を志した動機
    1. 私は、国家総動員法が施行された1938年に北海道の東部に位置する池田町に農家の二男として生れた。
       1957年に高校を卒業したのち、独学で大学へ進学すべく単身上京し、新聞配達等の仕事に従事して生計を維持しながら受験勉強をした。
       1960年4月に中央大法学部(2部)に入学し、安保闘争を経験したのち、その後1部に転部したが、この間アルバイトの収入と奨学金を受給しながら、法律学等の勉強をした。この頃から権力や資本に従属しないで自由に自分の意見を言える弁護士になりたいと思うようになった。しかも、大学では、自分が労働者の経験を有していて労働者の置かれた劣悪な労働実態を知っていたことや貧困等の社会の矛盾の発生要因に興味があったため、労研と横井(芳弘)ゼミに参加して、労働法等の社会科学について精力的に勉強すると共に、弁護士になるとすれば、いわゆる労弁といわれる労働者・労働組合の権利を守るための弁護士になりたいという気持が一層強くなって行った。
    2. 1964年に大学を卒業したのち、東京都庁に就職し、公務員の仕事をする傍ら受験勉強を続けた結果、幸い67年に司法試験に合格することが出来た。
       1968年に司法研修所に入所(22期)したが、同期の青法協活動(全修習生の過半数が青法協会員)は非常に活発であったため、最高裁と研修所からの青法協への攻撃は激しく、いわゆる司法反動と呼ばれる時代に入って行った。札幌地裁(福島裁判長)での実務修習中、長沼事件の裁判をめぐって平賀書簡問題が発生するなど貴重な経験を味わうことが出来た。
  3. 旬報法律事務所における労弁としての活動
    1. 私は、1970年4月に労働旬報法律事務所(以下、旬報という)に入所し、弁護士活動の一歩を踏み出したが、入所したのは、学生時代から労働法・労働事件に興味があって勉強をしていたため、これらの知識を生かせる事務所として旬報が最適と思われたこと、旬報が総評弁護団の中心的事務所となっていたため、総評系労働組合の事件を多数担当出来ると考えたこと、旬報所属の東城守一弁護士らの活動とその能力に憧れのようなものを抱いていたことなどがその理由である。
    2. 70年代から80年代前半にかけて、総評労働運動は最盛期にあって、労使の対立は激しく、集団的労使関係に関する紛争や刑事弾圧が多発したため、裁判所や労働委員会において多数の大規模かつ困難な労働事件を担当することとなった。私は、このような多数の事件を担当する中で考えさせられる点が多くあったが、労働法学者等の研究は、実務における事件処理の理論としては、追いついていないことが多かったため、学者に対して問題提起をして理論的に深めて貰おうと考えて、自分で法律雑誌に整理解雇や企業倒産等に関する論文を発表したことも少なくなかった。
       このように、この時代は、労働事件について、実務的にも理論的にも私の弁護士活動にとって貴重な経験をすることが出来た重要な時期であった(なお、私は、最高裁で3回も弁論をするという機会が与えられたが、とりわけ日本食塩製造事件において最高裁が判示した解雇権濫用法理は、その後の判例と実務をリードし、労働契約法16条として法文化されるに至った)。
  4. 公害・薬害弁護士としての活動
    1. 1970年4月に旬報に入所した当時、豊田誠弁護士(13期・元団長)が前年から旬報に在籍していたこともあって、72年になって、同弁護士のところにスモン(SMON)と呼ばれていた神経疾患に関するキノホルム薬害事件についての相談が被害者の方々から持ち込まれた。
       私は、前記のように、労働事件だけでも多忙を極めていたが、豊田弁護士からスモンの被害者のところに一緒に会いに行かないかと言って誘われたため、同行することにした。当時、私は、自分も子供の頃から胃腸が弱かったため、キノホルム剤(ワカ末錠)を頻繁に使用していたことなどの理由から、スモン患者の被害を他人事とは思えず、弁護士登録をしたばかりの鈴木堯博弁護士(24期)も加わって3人で群馬県に居住していたスモン患者のところに会いに行った。そこで私は、スモン患者の深刻な被害の実態を知って、大きなショックを受け、この人達の被害救済のためには、国や製薬企業を相手とするこの事件を代理人として担当して、何が何でも勝利しなければならないと考えるに至った。これが、主として労働事件を担当するために旬報に入所した私が、その後も含めて薬害事件・公害事件等にも取り組むようになった主な理由である。
    2. スモン事件(常任弁護士として関与)は、全国の各地裁に訴訟提起されて、各地裁で勝利判決が続いたのち、支援者による大きな運動の力もあって、1986年11月に確認書調印による和解によって全面解決に至った(この闘いの過程で薬事法の改正と薬害救済基金法の制定という成果も勝ち取ることが出来た)。このようなスモンの闘いの貴重な経験は、その後HIVというウイルスの混入した血液製剤によってHIVに感染しエイズを発症するに至った血友病患者の被害についての薬害エイズ事件(副団長・団長として関与)の訴訟を担当した際に、訴訟の進行においても、裁判所の所見を前提とする和解による全面解決(1996年3月)においても、十分に役立たせることが出来た。
  5. 弁護士会等における活動
     私は、1970年に二弁に登録したが、前記のように、当初は個々の事件の処理に追われていたため、しばらくの間は弁護士会の活動には、委員会活動も含めてほとんど関与して来なかった。しかし、大型の労働事件が減少すると共に、スモン事件が解決したのちは、日弁連の女性の権利委員会の委員として、労働者派遣法や労基法改正の意見書作成に中心的に関与し、二弁の各種委員会の委員長等としても関与する機会を与えられた。
     とりわけ、1998年から1年間は二弁の筆頭副会長・日弁連の常務理事として関与する機会を与えられ、全国の多くの弁護士のみならず、裁判所や検察庁の関係者とも意見交換をする機会があったが、司法改革について得難い経験することが出来たと思っている(なお、10年間東京家裁の調停委員を経験する機会を与えられたことも、多くの異業種から参加している民間の調停委員の方との交流を深めることが出来た)。
  6. 若い弁護士諸氏にのぞむこと
     46年間に及ぶ私の弁護士活動を振り返った時、われながら、多彩な活動を行って来たと思う。このような種々の活動を大過なく行うことが出来たのも、自分が健康に恵まれると共に、依頼者の正当な権利の実現を図るという意欲を失うことなく、担当する事件等に理論的興味を持って真剣に取り組むという姿勢を継続して維持することが出来たからであると思う。
     弁護士は、現在種々の面で困難な状況にあるため、私が行って来たような活動をすることは難しいと思うが、以下の諸点に注意をして事件活動を行って頂ければと思う。@個々人にとって興味のある分野を一つか二つ見つけて、その分野の事件では、誰にも負けないようなエキスパートの弁護士になること、A担当する事件については、常に理論的水準や文章能力を向上させ、裁判所や相手方弁護士からも一目おかれるような訴訟活動を展開すること、B依頼者(但し、クレーマー的依頼者もいるので要注意)の正当な権利を守るために最大の努力を傾注すること、C財政的基盤の確立を常に念頭に置きつつも、決して金儲け本位の事件処理に走らないこと、D高い倫理観を持って、政治的問題を含めて社会のために貢献する活動を行うこと、E心身共に健康であるために、スポーツや気分転換になる趣味を持つこと。
     僭越ながら差し出がましいことを書かせて頂いたが、人生の終末期に入った高齢者のたわごとと思ってお許し頂きたい。若い弁護士諸氏にとって、少しでも参考になる点があれば望外の喜びである。
 
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