自由法曹団 東京支部
 
 
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団支部の活動紹介

私の弁護士の生活等を振り返りながら

岡田克彦法律事務所 岡田 克彦

  1. 私も弁護士に昭和44年4月になって以来、途中、何度か休んだりしましたが、今日まで弁護士を続けています。
  2. 私は、昭和18年8月、群馬県前橋市で、5人兄弟の末子に生まれました。父が10人兄弟の長男で、戦争中であったこともあり、相当苦労もしたようです。母は近くの蚕作りの娘で、女医にもなりたかったようですが、家が傾き出し、早く父のところに来たようです。わが家も、戦争中は、母の実家に疎開し、私は1番下だったので可愛がられたようです。従来の家が焼けてしまい、バラックに祖父母と結婚をしていない叔母達が住み、父と家族は少し離れた家に住み、祖父らの鉄工所で働きました。叔母達も結婚したりし、男手が少ないので、次兄が行くようになりましたが、近くにあった神社にテレビが入り、プロレス中継等でうるさくて、大学受験等を意識して、小学6年になる私が行くことになりました。子供は私一人で、寂しかったと思いますが、中学では、次兄がバレー部をやり、4兄もバレー部のキャプテンをやっておりましたので、私も一生懸命やり、生徒会活動等も行いました。高校に行き、叔父の影響ということで剣道部に入ってみましたが上手くならず、自転車で赤城の麓等を散策したりし、また、60年安保で樺美智子さんが次兄の同級生であったりしたこともあり、高校生としても、デモに参加したりしました。
     大学に入り、寮は剣道部に入ってみましたが、やはり左足が良くなく、部落研や色んなサークル等もやりましたが、次第に法律科目が始まり、何かやらねばと思い、専門科目へ行くに当たって、氷川下セツルメントに入り、地域で考えて見ようと思いました。児童部、青年部、保健部や栄養部もあり、地域の南京虫退治等の地域活動をやったりしていました。丁度そのころ、三ヶ月章教授が熱心に法曹になれ等と言い出していて、法律を学ぶ者が一緒に勉強会をやりだしました。私は4年で司法試験に受かってしまい、何をやるかまだ決まってなかったので1年浪人し、翌年には、法学部を卒業し、司法研修所に行くことにしました。どんな法律家になるのかということで、前期、民事裁判、検察、弁護、後期と二年間、ゆっくりとではなかった気もしましたが、考えさせられてもらったともいえると思います。丁度、青法協が、同期の半分になる等しましたが、同時に、宮本判事補が裁判官になるのを拒否されたり、司法の反動化という現象が始まって来ておりました。
  3. 弁護士として、私は、当時、出版社の2階にあった法律事務所に入りました。弁護士は15人位は居ましたが、色んな事件もありました。先輩の弁護士は総評の法規対策部に行って仕事を取って来るということもありました。中堅の弁護士は、山梨の労働組合はまだ労働弁護士が居なくて、山梨貸切というタクシー会社の事件では、労使の協定で組合員の解雇等は決めていたのを一方的に委員長を解雇するのは無効であるとの決定を取ったのに参加したりしました。全金プリンスという組合が、様々な労働事件も行っておりましたが、同期の21期の弁護士が中心になり、日産自動車の村山工場で、バイトの少年が機械に挟まれ死亡した宮崎事件、茨城の高校を卒業して半年であったが、夜勤の為にすっかり疲労憔悴しきって、トイレの便所で死亡が発見された事件等があり、裁判闘争の中で、会社に責任を認めさせたりしました。
     全逓長崎事件では、春闘等から緊張し刑事弾圧にまで発展していった事件等で弁護士も出張し、一緒に公判闘争に参加しましたが、私は急性肝炎にかかり、1年休んだのですが、翌年仕事を始めたら、そのまま慢性肝炎になってしまい、自宅で療養し、非A非Bの肝炎であると言われ、漢方治療も受けるようになり、徐々に復帰し、労働事件の一線ではなくとも、背後から、やれるようになりました。弁護士としては、自分の体力の限界等も感じており、中小企業診断士という資格にも興味を持ち、休んだ期間にも勉強をし、資格を取り、簡単な企業診断や商店街診断等にも参加したりしました。
     賃金差別反対等は、各組合でも取り組まれ、差別反対の共同闘争に発展して行きましたが、私も、累積差別等の構造と継続性等の論文を書いたり、日立の闘いに参加しました。
     全倉運では、三菱等の大手倉庫から中小の組合までが参加していましたが、高度成長期の争議や個別的な労働災害もあり、企業が乗っ取りグループに乗っ取られたが、会社更生法等を活用した三井埠頭の闘い等も地元の組合や弁護団の協力を得て、頑張りました。
     私は、総評弁護団(後に労働弁護団)、団は、事務所でもやる人が多く居て、青法協、そして、日民協の担当をするようになりました。また、民事訴訟法の改正等と絡み、裁判所の速記官制度を外部からの反訳等に切り替える方向が進行しておりましたが、各弁護士会等では、点検などをして、速記官制度を守る運動も広がっており、参加しました。
  4. 脳内出血等と回復の努力等
     60歳の頃、団の会合で、司法の改革等を議論し、終わるとき、倒れ、救急車で東京警察病院に担ぎ込まれ、脳内出血で、緊急に開頭手術をし、幸い切れたところも浅かったりしたようでした。なぜか左足が痛いと思っていましたが、中学以来の兎跳びや剣道以来の無理が溜まっていったようでした。その後、江戸川病院に転院し、約5か月入院し、以降も2か月に一度位通院を続け、現在も言語聴覚士にも指導して貰ったりしております。また、虎の門病院では、以前から、前立腺癌の検査をしておりましたが、急に数値が高くなり、前立腺癌の手術をして貰い、また、足の痛みは、脊柱管狭窄症で、手術は難しいので止めました。
     私は、そんなことをしながら、民事の事件等もやろうかと思いながら、結構細かくて、刑事の国選事件が出来るというので、申請をして、国選の事件を始めました。刑事事件は、昔、弾圧事件等でやったことはありましたが、国選の事件は、やる人が居ないので弁護士会の事務の人が無理をしてお願いをするという形でした。国選の事件もかなりあり、面白いと思いやり始めました。この頃、旬報でも若い弁護士が増え、私も居住している浦和でやらないかという話しもありましたが、刑事事件等でもやれると思い、神田に事務所を作ることにしました。
     そんな中で、司法制度、特に法曹養成制度も急激に変わりだし、弁護士も大量に増員してきておりました。東京の各弁護士会でも、元検察官の人も刑事事件に取り組んでおりましたが、特に、二弁では、国選事件を全部申告させ、「不十分な弁護」等として、刑事弁護委員会で検討し、問題があるとすると、停止させること等になって来ました。私も、他の人達と一緒に、問題点があるとして、停止を受けたりしました。私は、病気の影響もあり、仕方がないと思い、今度は注意を受けないように等と注意したりしました。
     私は、二弁の刑事弁護委員会の実体を知って見ようと思い、委員会の委員に希望したところ、幹事になれ、どうやって記録等を整理し、争点を浮き立たせていくのか等、処理のシステム等も次第に判って来たりもしました。
     刑事にしろ、民事にしろ、争点は、重要であり、これをどう掴んでいくか等が、最大の問題になることが多いようです。
  5. 私は、弁護士になろうかと考え、それなりに弁護士の仕事に着き、病気や特別な理由がない限りは、やって来ました。現在では、全倉運の法律相談をしたり、過去の組合や関係者等の事件等もやっており、刑事事件も、国選であった事件等の関係事件もやっております。
     弁護士として、自営のサービス労働をする人間として、働いていきたいと思います。
 
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