自由法曹団 東京支部
 
 
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団支部の活動紹介

ある生き方

第一法律事務所 千葉 憲雄


 「若手弁護士に向けてのメッセージ」との原稿依頼を受けたが、そのような立場にないのでお断りさせていただいた。しかし、重ねての依頼のため、やむなく、私の生き方の一端を述べることでお許し願いたいと思う。

 50年前、司法試験合格直後に結婚した。新婚旅行から帰った夜、妻に「金儲けの弁護士にはならない」などの私の生き方を改めて話した。聞き終わった妻は、バラ色の夢が破れかなりのショックを受けていたが、その後、今日に至るまで、私の生き方を理解し協力してくれたので心から感謝している。
 修習生になる直前、私が求める生き方を聞いた銀行協会局長の安原氏(妻がその秘書)が、大学同期の友人で尊敬する弁護士として団員の米村正一先生を紹介して下さった。早速、事務所を訪問したところ、大先輩は、たった一人で、質素な事務所で、金儲けとは全く無縁の仕事をされ、丁寧に、とつとつとご自分の弁護士の生き方を話してくださった。深い感銘をいただいた。
 修習時代は青法協活動に明け暮れ、弁護士登録後は石島、金綱、関原、竹沢、鶴見、向弁護士ら大先輩が活躍していた第一法律事務所に所属させていただいた(ほとんどの先輩が鬼籍に入り、現在事務所に残っているのは鶴見弁護士だけとなった)。
 事務所入所と同時に、選挙弾圧事件を数多く担当した。驚いたことは、接見時間が15分に制限され、また、午後6時を過ぎると接見を認めなかったことである。新人弁護士を中心に団の弾圧部会を結成し対策を協議した。そして、時間の制限を無視し雑談してでも30分以上時間を延長し、警官が時間の終了を告げても「制限する法的根拠を示せ!」などと撃退した。午後6時の門限時間も、わざわざ6時少し過ぎに接見するようにして、この制限も打ち破った。当時、それまでの警察のいいなり状態を容認していた多くの先輩方に、不遜にも、厳しい批判の文書を公にしたこともあったが、今は昔の話である。
 また、当時は、労働災害や職業病による生命や健康被害が多発していたにもかかわらず、その対策、救済がほとんどされていない現実に直面し、労災・職業病対策のため若手弁護士中心の研究会立ち上げに加わった。裁判提起を促し、職場の安全対策と労働者の意識覚醒を押し進めた。今から約45年前、年間10〜12名の死亡事故が多発していた三菱重工業横浜造船所を相手に弁護団を組織し裁判を提起したところ、その直後から死亡事故が激減し年1〜2名になった。尊い命を守り、職場の環境を改善することができた。安全配慮義務などはこのような裁判が多く提起され争われる中で裁判所に認めさせたものである。
 団の幹事も務めさせていただいたが、私は、専ら期成会と弁護士会の活動に時間を割き、30年間はひたすら弁護士会の民主化活動に精力を注いできた。弁護士会では常時4から5の委員会に所属し、期成会の当番幹事も引き受けた。東弁の副会長も引き受け、日弁連の常務理事も務めた。弁護士会の民主化が司法の民主化につながるとの確信があったので、私なりにできる限りの時間を割いた。
 還暦を迎えた時、居住地の地元日野市での公益活動に時間を割くようにした。当時の森田革新市長の強い要請があったこと、60歳以降はボランティア活動をする、と決めていたためであった。月3回の定期法律相談、地元選出の法務省人権擁護委員活動、人権調整専門委員活動、子どもの人権問題協議会活動、民法勉強会講師等、週2日の時間を割いてきた。これらの活動は、10年間続けた。
 偶々、4年前に不祥事により解散寸前になっていた公益財団(職員400名、会員50万)の建て直しの理事長をやむなく引き受け、3年かけて大改革を断行した。不正に加担せず正義を護る弁護士を貫いてきたから出来た仕事である。
 振り返ってみると、それほどのこともなしに終盤を迎える年齢になったが、後悔はない。人はそれぞれの能力の中で力を尽くせばよいのではなかろうか。
 間もなく、79歳を迎える。元気な間は、現役をつづけるつもりでいる。

 
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