自由法曹団 東京支部
 
 
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団支部の活動紹介

若手弁護士へのメッセージ

吾妻真典法律事務所 吾妻 真典


  1. はじめに
     このたび団東京支部から、若手団員の励みになるような原稿執筆の依頼がありました。
     私は、東京支部創生期の頃に事務局長を務めてきましたので断わる訳にいかず、そうかといって古稀を過ぎて一人で細々と弁護士業務を行っている私には任が重く気が進みませんでした。
     そこで昨年、私が団本部の古稀団員記念文集に投稿したものを抜粋したものでよければと申入れたところ、了承されましたので甘えることにしました。
  2. 私の駈け出時代

    (1)塩播かれ事件
     私は、1968年(昭和43年)4月に松本善明法律事務所(現在の代々木総合法律事務所)に入所しました。
     期は、20期で若干25歳になったばかりでした。当時の事務所は、地下鉄丸の内線 新中野駅近くの青梅街道に面した木造二階建の粗末な建物でした。
     松本善明事務所は、日本共産党衆議院議員の松本善明さんを当選させるために、主に善明さんの選挙地域であった中野区、杉並区、渋谷区の地域住民の生活と権利を守る活動をしながら、善明さんへの支持を広げる役割があり、最初の地域事務所でもありました。
     私が入所した時は、すでに善明さんは国会議員になって国対委員長という要職にありました。
     共産党が選挙で躍進したこともあって、国家権力の党や民主勢力に対する弾圧は激しく、特に選挙期間中は、ほとんど連日といってよいほど、ビラ貼りやビラ配りに対して軽犯罪法違反で、活動家を逮捕するなどの弾圧が頻発していました。
     そのため、選挙期間中は必ず担当者が事務所に寝泊まりして待機していました。寝る場所は最悪で、夜中にドブネズミ程の大きなネズミが何匹も枕元で動き回るのです。また特に夜間は、長距離トラックの震動で木造の事務所が地震に遭ったように揺れ動くのです。
     そんな中で世田谷民主商工会の活動家が逮捕されて世田谷警察に逮捕勾留される事件が発生しました。
     私は、地域の仲間とともに世田谷警察に抗議に行った帰り、警備課長に「福は内、鬼は外」と叫びながら塩をまかれるという嫌がらせにあったのです。
     これがサンケイ新聞に大々的に「塩をまかれた弁護士」の見出しで載ったのです。
     私は当時、両親と同居しており、実家が住いだったので、新聞をみた両親に心配されたり、知人や近所の人からやゆされたりしたので、当初はみっともない、恥ずかしいと思っていました。
     ところが、新聞をみた見知らぬ人から手紙が来ました。そこには「権力から鬼と言われる頼もしい弁護士」と書かれており、大いに励まされたことを今でも懐かしく思い出します。

    (2)争議現場から事務所に出勤
     当時は、労働争議も頻発していました。
     世田谷区の某私立女子高校のボンボンの二代目理事長が、学校校舎を担保に借入れをしたものの、返済ができなくなって競売になり、これを落札したのがインドネシアのスカルノ大統領にデビ夫人を紹介したと噂された政商だったのです。
     現場にはものものしく有刺鉄線が張られ、生徒が校舎に立入れない状態でした。
     私は、私教連(私立学校教職員組合連合)から派遣されて、組合員の教職員とともに校舎の一室に寝泊まりして強制執行による明渡しを阻止していたのです。夜中になると政商の自宅で双方の弁護士同席で解決のための交渉をするのですが、私はまだ駆け出しでしたので、もっぱら校舎内に待機して交渉の報告を受けては、それを組合員に伝える立場だったのです。
     当時、私は独身でしたので寝食はここで行い、事務所や裁判所には争議現場から出掛けていました。
     このような生活は、1年近く続いたでしょう。これも懐かしい思い出です。

    (3)司法の反動化と立入禁止の仮処分事件
     当時の東京地方裁判所労働部の民事9部に中川幹郎という反動化の権化のような裁判官がいました。
     私は、当時自宅が池袋だったこともあって、池袋自動車教習所の企業閉鎖反対闘争で自交総連自動車教習所労働組合の代理人として、この事件を担当していました。
     自宅の近くにあった池袋自動車教習所が経営不振を理由に従業員を一方的に解雇して企業閉鎖を強行してきたのです。
     労働組合は当然のように閉鎖反対闘争に立ち上がり、施設内の組合事務所に籠城しました。
     当時も独身であったこともあって、ここでも組合事務所に寝泊まりしていました。ところが、会社側は組合事務所を含めた会社施設内の立入り禁止仮処分の申立てをし、その担当が労働者にとって悪名高い中川裁判官だったのです。
     当時は、戦後の混乱期と違って、労働争議で立入り禁止の仮処分命令が出されることは少なく、まして会社敷地内はともかく組合事務所にまで、立入りを禁止される決定は考えられなかったのです。
     ところが中川裁判官は、組合側に一回だけ形だけの審尋をするだけで、抜き打ち的に決定する暴挙を行なってきたのです。
     忘れもしません。その日、私は久しぶりに自宅に帰っていたのですが、早朝、組合員が血相を変えて自宅に駆け込んできました。話を聞いて半信半疑で現場に向ったところ、組合員の目の前で会社側が雇った数十人の男達が、組合事務所内の荷物を片っ端から運びだしていたのです。私が抗議すると酒の匂いをさせた一人の男が、私に向って「お前は弁護士だろう。裁判所の決定に従わなければバッチが泣くぞ」と面罵してきたのです。
     私は、やっぱり彼らも1人の労働者として、酒が入らなければ良心が痛んでこのような暴挙はできないのだろうと思いました。
     執行が終わり、彼らが帰った後、私は組合員にどのような話をしたか思いだせません。
     多分、法律家として何もできなかったことが申し訳ないという悔悟の念に打ちしおれて、まともな話はできなかったと思います。
     ところが、組合の委員長が少しも動ぜず「裁判所や会社が、われわれを組合事務所から追い出しても、組合員の団結まで解散させることはできない。組合があるかぎり最後はわれわれが勝つ」と高らかに宣言したのです。
     私は、この言葉を聞いてどんなに救われたことでしょう。
     委員長の言葉通り、池袋自動車教習所ほか数社を経営する和田グループの、先進的な池袋の労働組合を壊滅する目的の不当労働行為であるとして申立てた都労委での2年余の闘いの結果、希望者全員を関連の板橋自動車教習所ほかの教習所に雇用させるという画期的な成果を勝ち取りました。
     この事件には後日談があります。
     中川裁判官の排斥運動を広げてもらおうと総評弁護団と自由法曹団に支援を訴えたところ、微妙な違いがあったのです。いまだから話せますが、自由法曹団は打てば響くように応じてくれたのです。一方で総評弁護団はどちらかというと弁護士の力量に問題があったかのようなニュアンスに受取れたのです。
     この時、自分が帰属ずる組織は、やっぱり自由法曹団だと思いました。

  3. まとめ
     私の駆け出しの頃は、文字通り激動の時代で東大闘争を中心とした学園紛争、国鉄労働者の順法闘争という名のストなどの待機要員として、よく大学近くの旅館や国労会館に寝泊りした記憶があります。
     弁護士は事件から学んで成長すると言われますが、私の青年時代はやたら権力から痛めつけられ、鍛えられたという記憶です。前述した塩播かれ事件や中川裁判官の不当な仮処分決定などはもとより、警察に接見に赴くと、弁護士バッチをつけていても「ほんとうに弁護士なのか」と疑われ、決まってひと悶着がありました。当時、私は学生からそのまま弁護士になったので、弁護士にみられることが少なかったのだと思いますが、果して自分はこれから労弁として、やっていけるのか真剣に悩んだ時代でした。
     それでも今は、事務所や団の諸先輩や民主団体、労働組合の活動家、依頼者などに励まされながら労弁として頑張ってきてよかったと心から思っています。
 
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