自由法曹団 東京支部
 
 
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若手弁護士へのメッセージ 狭山事件、一つの教訓

東京合同法律事務所 橋本 紀徳


1 1963年9月4日、浦和地方裁判所で、狭山事件の第1回公判が始まりました。
 被告人は石川一雄さんです。(当時24才)
 同年5月1日、埼玉県狭山市在住の埼玉県川越高校1年生の中田善枝さん(16才)が、下校の途中、行方不明になりました。その夜、善枝さんの自宅に身代金を要求する脅迫状が届きました。
 5月2日の深夜、身代金を受け取るため、指定場所に犯人が現れましたが、40人もの警察官が張りこんでいたにもかかわらず、取り逃がしてしまいました。
 5月4日、農道に埋められていた善枝さんの遺体が発見されました。
 これが、狭山事件のあらましです。
 この事件の犯人として、同年5月23日、別件で、狭山市に住む石川一雄さんが逮捕され、同年7月9日、善枝さん殺しで起訴されました。

2 石川さんは、最初は否認していましたが、捜査段階の同年6月23日頃から、自白を始め、公判でも、最初から起訴事実を認め、捜査段階の自白を維持しました。
 中田直人、石田亨、それに私の3人が、同年5月から石川さんの弁護にあたりました(私選)。
 弁護人は、石川さんが起訴事実を全て認めているにもかかわらず、公判の最初から、無実を主張し、無罪判決を求めました。
 被告人が起訴事実を認めているのに、弁護人が無罪を主張するという事態を、裁判所は、弁護人の独り相撲とみたのか、弁護人の主張に耳を貸さず、弁護人の証拠調請求もことごとく却下し、早々に結審し、64年3月11日、石川さんに死刑の判決を言い渡しました。
 同年9月10日の控訴審第1回公判の冒頭、石川さんは、弁護人に相談することもなく、自分が無実であることを明らかにしました。

3 捜査段階のある時期以降、石川さんは、弁護人を信頼せず、むしろ、警察官を信頼するようになっていました。
 石川さんは部落出身の青年でした。貧困のため、事実上、小学校5年で退学し、当時の石川さんは、漢字など、読むことも、書くこともできず、常識を欠くところがありました。刑事裁判の仕組みや、弁護人の役割も全く知らなかったのです。
 石川さんには、当初から認めていた窃盗などの軽微な別件が10ほどありました。これに乗じて、取調官は、「お前は、善枝さん殺しを認めても、認めなくても、10年は刑務所に入らなければならない、認めれば10年で出してやる、認めなければ死刑だ」と脅し、また、甘言を弄しました。石川さんは、取調官の誘導のまま自白し、また、自白を維持したのです。

4 弁護人は、自白と物証が合致しないことに気づいていました。
 自白による殺害方法は扼殺ですが、遺体の首に残る痕跡は絞殺を示していました。
 だから、石川さんが自白を維持しているにもかかわらず、無罪を主張したのです。
 しかし、弁護人は石川さんが弁護人を信頼していないのだということに十分気づいていませんでした。
 狭山事件の教訓は、当たり前のことですが、被告人と弁護人は互いに信頼しあい、団結して闘わなければ、勝てる事件も勝つことはできないということです。そして、これは、刑事・民事を問わず、どのような事件でも同じことのように思われます。
 これは、狭山事件から学んだ一つの教訓です。
 2審で無期懲役になった石川さんは、現在、仮出獄し、再審を闘っています。

 
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