自由法曹団 東京支部
 
 
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若手弁護士へのメッセージ 〜私の履歴書

渋田・仁藤法律事務所 渋田 幹雄


 東京支部から連絡があり、何か書くようにとの電話であった。長い間、自由法曹団の活動に参加していないので大変申し訳ないと思ったが、せっかくのチャンスなので自分の若いときのことをかいてみることにした。

1 私の生い立ち
 私は1936年北海道の函館で生まれた。3歳のとき父の仕事の関係で上京し、当時の蒲田区糀谷に住むことになった。小学校は糀谷国民学校に入学した。戦争が激しくなって、羽田の飛行場が空爆の対象とされたので、多摩川に近い仲六郷に移転した。
 1945年の春にアメリカのB29による空襲で私の家も、父の会社も全焼した。その夜、蒲田、大森、川崎は火の海となり、私達家族は多摩川の川の水につかって九死に一生を得た。私は、小学校3年であった。

2 青森への疎開
 私達家族は函館に逃げたかったが、連絡船がないということで父の親戚を頼って青森県の野辺地町に疎開した。私は野辺地町の小学校で終戦を迎え、小学校を卒業し、野辺地中学に入学した。

3 再び東京へ
 私は昭和27年1月の中学三年3学期のとき、東京の高校を受験するため上京し、大田区(戦前の蒲田区と大森区は合併して大田区となっていた)の大森第四中学校に転校した。住むところがないので中学校の近くの新聞店に住込みで働くことになった。高校は大井町にある都立大学附属工業高校(後に高専になった)に入学し、昭和30年3月に卒業した。

4 司法試験をめざして
 高校三年のとき、進路について迷ったあげく進学して法学部に入り、国家試験を受けようと思った。新聞販売店での生活から抜け出して自立したいと考えたのである。
 昭和30年春、明治大学に入学し、2年のとき父に頼んで父の工場でバイトをさせてもらうことになり、新聞店はやめた。大学2年のとき明治大学に新しい研究室(司法試験の受験指導をする)ができたので入室した。大学4年のとき受験したところ運よく合格した。一緒に合格したなかに鶴見祐策さんがいる。彼も在学中であった。

5 修習生時代のこと
 私は1959年4月に13期生として紀尾井町の研修所に入所した。前期のクラスでは豊田誠さんや仲田晋さんなどが一緒であった。入所間もなく青法協に誘われて参加した。クラスの大半が青法協に入ったと記憶している。実務修習は横浜であった。同期には煖エ融さんらがいた。12期には鍛冶利秀さんや陶山圭之輔さん(故人)らがいた。
 やがて60年安保闘争が始まった。私達は横浜から国会へ何回となくデモに参加した。横浜時代は先輩弁護士と憲法の学習会や社会科学の勉強をした。

6 黒田事務所時代のこと
 1961年4月、当時の黒田事務所(現在の東京事務所)に入所した。煖エ融、中村洋二郎、山花貞夫(故人)、角尾隆信さんらも一緒に入所した。5人もの新人が入ったので事務所の台所は火の車であった。給料も遅配していた。しかし皆元気に活動し、活発に議論していた。
 黒田事務所では小島成一先生から一般民事事件の指導を受け、松本善明先生からは労働事件の指導を戴いた。上条先生や坂本先生など先輩の仕事も勉強になった。この一年間の実務の勉強がその後役立った。

7 松本善明事務所時代
 1962年春に黒田事務所から分離して松本善明事務所(現在の代々木事務所)が設立されることになった。私も新事務所に参加することになった。これは当時の地域事務所のハシリではないかと思う。
 松本事務所では地元の人々のために24時間体制で弾圧対策などをやることになり、私と妻は事務所の一階の奥にある6畳1間の和室に住むことになった。トイレも共用であった。
 事務所開設後しばらくして中野民商に対する弾圧が始まり、連日連夜その対応に走り回った。労働事件や一般事件も続々と発生して多忙を極めた。
 松本善明さんは二回目の選挙で国会議員に当選した。

8 三多摩事務所設立のこと
 当時、三多摩地区では労働運動の高揚期で解雇事件が多発し、又、選挙活動や政治活動に対する弾圧(ビラまきや戸別訪問など)が激増していた。そのため、多摩地区に法律事務所を作ることになった。
 私達は東京中央法律事務所と共同で三多摩事務所を設立した。メンバーは松本事務所から私と斉藤展夫(18期)、東京中央事務所からは同期の手塚八郎(故人)、川口巌(14期)が参加して1967年春立川市に事務所を作った。
 三多摩事務所はその後毎年弁護士を増員して活動を広げていった。昭和49年(1974年)のデーターによると、労働事件50件、公安事件15件、行政事件17件などで一般事件とあわせ各弁護士は100件近い事件を処理していた。

9 甲府合同事務所のこと
 三多摩事務所を開設して3年目位に山梨県に事務所を作ってほしいとの要望があった。地元の人々と協議した結果、甲府修習であった寺島勝洋(故人)を中心に設立することになり、甲府市内に事務所を開設した。

10 三多摩地区のその後
 事件の激増などで立川市にある三多摩事務所だけでは三多摩地区全体をカバーすることが難しい状況となっていった。
 昭和49年(1974年)5月八王子合同事務所を作ることになり、斉藤展夫、飯塚和夫、佐治融、久留達夫の4人の弁護士で八王子市に新事務所を開設した。
 その後、昭和53年(1978年)4月三鷹市に武蔵野事務所を開設し、川口巌、盛岡暉道、須合勝博、原口紘一弁護士らが武蔵野地区を中心に活動することになった。
 これによって三多摩事務所は三分割されたわけである。それぞれの事務所はその後順調に発展している。

11 私の独立について
 私は三多摩地区の事務所配置が完了したこと、立川市に革新市政が誕生したことを機に独立することを考えた。
 昭和46年(1971年)8月に地元立川市では三多摩労協、社会党、日本共産党、市民運動の力によって阿部行蔵さんを市長に当選させた。これは「明るい立川をつくる会」という民主的な連合組織のパワーによるものであった。私は「明るい会」の運動に参加して阿部市長を支え、市政の仕事を法律家の立場からサポートすることになった。
 昭和49年12月には正式に阿部市長から立川市の顧問弁護士の辞令を戴き、行政事務に関する相談にのったり、紛争の解決にあたることになった。残念なことに阿部市長は二期目の選挙で惜敗し、保守の市長が就任した。以後、代々保守の市長が続いている。しかし、私はその後も立川市の顧問弁護士として市政に関する法律問題の解決にあたっている。
 こうしたなかで、昭和54年(1979年)に私は三多摩事務所から独立して仁藤峻一弁護士と共同事務所を作ることになった。以来33年間現在の事務所で仕事をしている。
 自由法曹団の活動は、三多摩事務所を退所してからほとんど参加出来ない状況となっている。しかし自分の仕事のよりどころは若いときと同じ団の基本方針の方向であると考えている。自由法曹団の団員の皆さんのますますの活躍を願ってやまない。

 
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