自由法曹団 東京支部
 
 
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団支部の活動紹介

若手弁護士へのメッセージ 公害裁判に生きる

豊田 誠


1. 人生の転機は誰にでもある。そして、その転機はいくつもあるもののように思う。そうした機会に遭遇したとき、その転機をどう乗りこえ、身の処し方をどうきめるかということは、その人の主体的な判断にかかっていることは、いうまでもない。「なぜ弁護士という職業を選択したか」という転機について語ることは、自分史を語ることになる。日経新聞連載の「履歴書」のような、他の人に語るべき面白いエビソードも持ちあわせているわけでもないので、ここでは触れない。
 しかし、この機会に一つだけ語っておきたいことがある。それは、坂本修弁護士は、能代高校で私の3年先輩で、地元では秀才の名をとどろかしていた「神社の息子」だったが、奇しくも、中央大学(中桜会研究室)で「答案練習」の指導を受ける機会があつたということである。
 中桜会出身の先輩の弁護士たちには、その後、気がついてみたら、自由法曹団に所属した方が多数いたのである。私は、1年半ほどしか中桜会に在室していなかったので、個人的に薫陶を受ける機会は殆どなかったように思う。坂本先輩と個人的に話合う機会は殆どなかったが、私にとって、坂本先輩は、近寄りがたい大きな存在に思われた。
 先輩の存在そのものが、私の人生の転機に際し、私の判断に影響を与えていたかも知れない。私は、当然のごとく自由法曹団の団員となったのだから。

2. 私が、ここで語っておきたいことは、弁護士という職業の職域は、実に広範なのになぜ公害裁判を弁護士活動の軸にしてしまったのかということである。
 そのきっかけは、1968年1月6日の富山でのイタイイタイ病との巡り会いであった。イタイイタイ病被害の激甚地の出身であった島林樹弁護士が、地元から相談を受け、青年法律家協会に働きかけたことが契機となり、近藤忠孝、鳥生忠佑弁護士らの呼びかけで、東京、大阪、名古屋、金沢、地元富山から20名ほどの弁護士が結集した。これに私も参加した。
 このイタイイタイ病との出会いが、私の弁護士活動の中味を、その後、公害裁判を中軸にした活動へと展開させていく「転機」となったと言ってよい。
 私は、このイタイイタイ病の会合の中で、イタイイタイ病患者達の目を覆うばかりの凄惨な被害の状況を、初めて知ることができた。このことが、私の心の中に強烈な衝撃を与えた。しかし、こうした凄惨な被害者を家族にもちながらも、農民達は軽々しく権利主張をするでもなく、じっと耐え続けてきていたのである。裁判の原告に名乗り出ることに直ちに手をあげるでもなかったのである。打ちひしがれた農民達が、封建的な風土の中でじっと堪え忍びつつ生きつづけている姿に、私は、いたたまれない思いにかられたのである。
 しかし、この集りの中で、私たちの重苦しい心の扉を叩いたのは、地元の開業医萩野昇医師の訴えであつた。萩野医師は、被害現地のほぼ中心で個人開業をしている医師であった。その萩野医師は、多年に及んで、「いたいいたい」とうめきながら病に苦しむ多くの老婆達の診療にたずさわってきていた。弁護士達の集ったその7年前、札幌の日本整形外科学会で、イタイイタイ病鉱毒説を発表したのであるが、彼の言葉によれぱ、町医者の受難の歴史はここから始まったというのである。萩野医師の「イタイイタイ病との闘い」に詳しいが、「田舎医師に何がわかる。」「売名のためのPRだ」「神岡(三井金属鉱業、加害企業のこと)から金を取るためではないか」「ちかいうちに砂利トラにぶつけられて死ぬだろう」などなど、枚挙に暇のないほど、中傷、誹誘が繰り返され、彼は一時期アメリカヘ逃避せざるを得ない状況にまで追いこまれてしまったという。
 彼は、患者達の窮状やその原因について主治医としての説明をした後、涙をぼろぼろこぼしながら、「いたいいたいと、うめき続けているイタイイタイ病の患看達を、弁護士のみなさん、何とか助けてあげてください」と泣きながら訴えたのである。
 私は、心の中に雷鳴が走る思いをした。
 肩書きや研究歴のない、町の開業医が、訪れる奇病の患者達の原因を長い歳月の果てにさぐりあてたことにも驚いたが、それ以上に、その真実にたどりつきつつある開業医が、己を抹殺しようとする中傷、誹誘、威圧を耐えしのんで、患者の診療をしつづけている、その崇高な姿勢に心を打たれずにはいられなかったのである。そして、弁護士といっても、若手の弁護士で、田舎風にいえぱ、風格のある弁護士のカバンもち程度の者たちに、年輩の開業医が、涙をぼろぽろこぼしながら、哀願するに似て窮状を訴えたことに、私の心は「ここで引下がれるか」という思いが充満していったのである。
 今から回想すると、私は、この時に転機を迎えたのだと思っている。その後も、水俣病での藤野糺医師、原田正純教授、スモンでの多数の薬学教授たち、マレーシア・ブキメラの開業医、アマゾンの水俣病を研究していた開業医などの専門家たちのその真摯であらゆる追害にくじけない姿が、私たち公害・薬害弁護団の弁護土たちをどれだけ励ましてきていたことであろうか。
 私は回顧する。公害、薬害の被害者たちの被害はいずれも悲惨で放っておけない人道上、人権上の重要な課題ではある。被害者たちが弁護士たちの心をどれだけゆさぶったか計り知れないが、その被害者たちとともに歩んできた専門家(とりわけ医師)たちもまた弁護士の魂をゆさぶり続けてきたのである。

3. 人は変る。打ちひしがれた被害者たちであっても、裁判と運動に参加する中で、人は変っていくものだという体験が、私の公害裁判のエネルギーになってきたように思う。
 ここでは、一つひとつの公害、薬害裁判で人がどう変ってきたか、そのことが運動の支え、心の支えになってきたのかを語り尽す暇はない。印象的なことを三つだけ記すにとどめたい。
 一つは、患者たちの運動への取組みである。
 薬害スモンの裁判を始めたとき、裁判費用をどう捻出するか、大きな問題であった。労働事件ならば、その問題を提起する労働組合がバックにあったり、それがなくても、労働者にはカンパ活動の必要は容易に受けいれられるところであろう。薬害スモンでは、バラバラの市民である被害者たちが原告団を形づくっていた。私たちは労働問題の自分の体験から、スモン裁判の初期の時期に、患者たちにカンパ活動に打って出ることを呼びかけたことがあった。大阪の原告団で、その代表は、大阪船場の名家のおかみさん(患者)であったのだが、「カンパ活動をやろう」「それを通じて世論に訴えよう」という呼びかけは、無残にことわられてしまった。
 「先生、私たちは、そんな乞食みたいなことまでは、できしません」薬害スモンの患者たちには、外へ出てカンパ活動をやり、世論に訴えるということは無理なのかと、失望したものである。
 この事態を転回させたのは、スモン静岡原告団であった。今は亡き佐藤久弁護土が静岡で弁護団事務局長をしていたが、彼の努力にもより、静岡の患者たちは東部 (沼津)、中部(静岡)、西部(浜松)の三箇所で一斉に街頭カンパに打って出たのである。当初は、本当に辛かったようだ。患者たちは「お前たちは乞食か」とつばをかけられたと、悔し涙を流しながら話したこともあった。スモンがどんな薬害か世間には全く浸透していなかった時期のことである。
 しかし、静岡のスモン患者たちはくじけなかった。こんな世論では裁判にも勝てないのではないか、世論を味方にするまで頑張り抜こうと決意を固めていったのである。そして、スモン裁判は。国の責任を断罪する9連勝の勝利判決を勝ちとるが、静岡スモンのカンパ活動は全国で群を抜く成果を収め、裁判勝利の原動力の一つとなったものであった。
 二つには、患者たちだけではなく、弁護団も変った、運動の認識を変えたということである。
 全国各地22のスモン弁護団の団員のうち、自由法曹団員は、おそらく20%にみたなかったのではないかと思われる。スモンの判決を連弾で獲得していく過程で、それまで運動に無縁だった多くの弁護士たちが. 霞ヶ関のある東京に常駐して、判決前後に向けての運動を構築していったのである。
 私自身の経験を話そう。
 スモンの最初の判決は、金沢地裁の判決だったが、この判決は、社会的には「雪より冷たい判決」と評価されるものであった。そして、この後に、東京判決が予定されていた。短期問の問に世論を急激に高めていかなければならないという思いに誰もがかられていた。東京の運動をどう再構築するか、そんな議論(被害者、弁護団、支援の合同討論)がなされたときに、様々な運動構築の課題の中で, 原告団集会のしめくくりに何をやって原告団の心を一つにするかという問題が提起された。その時、山田晃一さん(元報知印刷労組)だったと思うが、「みなさんで「故郷」(うさぎ追いしかの山…)を合唱しよう」と提案されたのである。私は、真っ先に「こんな深刻な薬害被害者の集会のしめくくりを歌で閉じるとは」と反対した。集会では、結局、全員合唱「故郷」でしめくくることにしたのだが、実際にやってみて驚いた。これまで「訴える」ことに躊躇していた患者たちが、口を開いたのだ。最初はボソボソと、そして、途中から全員が泣き出しながら歌いつづけたのである。
 涙の合唱は、自分たちの権利の主張の心からの発露であり、ゴタゴタしていた患者集団の心をまとめることになっていった。運動は理屈ではない。心の通いあいが団結の要めになる。私自身の認識が変えられたのである。
 三つには、患者、弁護団だけでなく、世論も大きくかわったということである。
 スモンでは、国の責任を問うことが至難の課題であった。当時の東京地裁(可部恒雄裁判長)も、国の責任について容易にこれを認めるという方向ではなかった。当時の行政法学者の御大、田中二郎先生を鎌倉に何度か尋ねたエピソードは、後日にゆずりたいが、田中二郎先生が私たちの作成した最終準備書面を読まれて、最後におっしゃった言葉は、「これだけの事実関係が認められるなら国の責任を認めてもよいだろう」ということだった。運動の中で、学者もまた変った。そして、みんなが変っていくなかで、広範囲な世論が国(厚生省)、大製薬会杜に責任をとらせる素地をつくっていったのだと思う。
 こうした「変化の実感」が、私の公害裁判のエネルギーとなってきたように思う。

4,今目、多くの若手弁護士たちが、3.11原発事故問題への取組みを展開している。
 君たちには未来がある。国民から寄せられている期待がある。未来を切り拓くひらくのは、君たちの力にかかっている。
 自由法曹団は、その歴史の中に、小作争議、松川の闘い、三井三池、中小の労働争議、朝日訴訟、公害裁判、薬害裁判、じん肺、労災などなどの無数の経験を蓄積している。
 どんなに苦難なときにも、国民と共同して、人権確立の歴吏を築き上げてきたことの伝統のバトンを、いま若手弁護士の諸君が引継いでいくことを信じてやまない。

 
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