自由法曹団 東京支部
 
 
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若手弁護士へのメッセージ
 労働争議は遠くになりにけり 元気がよかった労働弁護士

山本 博


 第9期、昭和32年四月弁護士に。二十六才。入所は、今の旬報法律事務所、港区西久保巴町にあった木造二階建ての労調協の建物。と言ってもオンボロ建物の一階で、そこに佐伯法律事務所と労働法律旬報社が同居していた。その隅に鈴木紀雄、東城守一、鎌形博之、久保田昭夫、村崎勝一、新井章などの錚々たる強者がたてこもっていた。机も三つしかなく、事務所会議をすると全員座る椅子もなかった。ただ、誰もが意気揚々として、若かった。
 労働事務所だからというので、シャツに鳥打帽で行ったら、まず東城弁護士から「弁護士たる者、身なりをきちんとして来い、背広とネクタイでだ、」とどやされた。
 いきなり、品川製作所の争議があるから行って演説して来いと命令。大会に出て無我夢中で何かを喋った、生まれて初めての演説だから。帰りかけに封筒をもらい、開けたら入っていたのが五千円。研修所の給与が一万二千円、弁護士事務所の初任給が一万五千円の時代だったから、弁護士というのも悪くない商売だと思った。この品川製作所の争議といえば、組合が門のところでピケを張っていたら、会社側の弁護士を先頭に暴力団がピケ破りに来た。すると松崎弁護士がピケの前面に大手を張って立ちふさがり、「ここを通る気ならオレを殺してから通れ」と大声。暴力団はあきらめて帰った。本当の話で、とにかく労働弁護士は格好がよかった。
 当時、タクシーの争議が多く、組合側は会社に立てこもった。そのはしりは「代々木タクシー」で、警察署が目の前にあり、共産党の本部もそばだったから、台風の目のごとく手をつけられず、赤旗を立てガラクタまで積み上げた籠城戦術が一ヶ月以上も続いた。最後まで残った組合員は十数名だったが、争議の終結の段になると終結条件をめぐって真っ二つに割れた。戦いの同志である仲間が殴り合いと取っ組み合いの大喧嘩、こっちはただおろおろして眺めているだけだった。争議というのは、入る時はやさしいが、終る時が大変なんだなと痛感したのはこの時である。
 タクシーといえば、メトロ争議が有名。本社が大阪にあり東京支社の役員で交渉しても埒があかないので、大阪本社に押しかけようということになった。タクシーの車を連ねてである。これを察知した会社側は、車移動禁止の仮処分を申請した。東京地裁の審訊で、小島誠一、松本善明弁護士が西川裁判長と折衝。そのすきに車を出してしまえということになり、深夜数十台の車が出発。地裁の審訊のことは知らなかった僕は、命じられたまま、タクシーの先頭車に乗り都内を走り抜けたが、もし警察が出てきて阻止したらどんなことになるやら薄氷を渡る気持ちだった。箱根の山の頂上で静岡の県評部隊に引き継いで大役御免になり、本当にほっとした。
 タクシーの争議でひどかったのは「相鉄交通」。組合の立てこもり戦術を阻止するため会社側が人夫その他を大動員して組合員の目の前でロックアウトのための大きな柵つくりを始めた。警察が来ていたが、列をつくって待機しているだけで何もしない。それだけでなく、そのうち、組合のピケ隊員の中から、共産党員の幹部二名だけを引き抜いて連行していった。しかもそのうちの一人を大衆の前で公然と袋だたきにした(いったん留置したが肋骨が折れているのがわかって、あわてて釈放した)。会社側が柵を建てようとする騒然たる中で、僕はこのままではまずいと思い会社構内の組合事務所へ行こうと皆に呼びかけた。人夫が作業中の構内に飛び込んだが、続くはずの者が誰もいない。一人取り残されると誰が合図をしたのか、あっという間に十数名の暴力団に取り囲まれ、外から見えないようにした中で、殴られたり蹴られたり、ひどい目にあった。「そいつをやったらまずい」という声がかかって救出されたが、救ってくれたのは何と公安の刑事だった。その後、数日間動けなかったが、争議終結の和解条件の一つとして見舞金を十万円もらった。大衆行動をする場合、孤立してはいけないと言う教訓を学んだのは、この時である。
 全金関係の争議は多かった。忘れられない争議の中で、労働弁護士の活躍の点で歴史的に重要なものがいくつかある。当時、組合はシットダウンスト、つまり工場立てこもり戦術をとった。使用者の方は先手を打ってロックアウトをするか、裁判所は立入禁止仮処分を申請した。審訊をめぐる労使双方弁護士の攻防戦が争議の帰趨を決した。そういう時代があったのだ。「成光電気」でいえば、組合員は工場にたてこもり、仮処分を取った使用者側弁護士が執行人を先頭に数多くの人夫をつれて現場へ来た。それを保護するように数多くの機動隊警察官。工場の入り口で、執行についての労使代表の折衝のなかで、組合員の投げた石が執行吏執の頭に当たった。血だらけになった執行吏は強制執行の妨害罪で組合員全員を逮捕するように警察に要請。殺気走った雰囲気の中で、結局社会党の国会議員(神近さんだったか?)の斡旋で全員整然と列を作って工場から退去。私も工場内で指揮を取っていた一人だったから、一時は逮捕・拘留・起訴を免のがれないと覚悟していたから、素直に言ってほっとした。ただ、退去が終わった後、一部の組合員が不明だったので、あるいは逮捕されたのではないかと池袋暑へ確かめに行った。今で思えば若気の至り、ひとりで行った。署内で現場から帰った多数の警察官が渦巻き、興奮さめやらぬ気配だった。地下へ案内されたのでいこうとすると、階段の途中で警察官に取りかこまれ、ここでも数々(後から)殴られたり蹴られたりした。夢中で抗議しても、にやにや笑うだけ。多数に非勢どうにもならない。これもよい教訓だった。
 成光電気の後に続いたのが「田原製作所」である。この争議では、現場で組合員のピケと警察が衝突。組合員の一人が死亡した。これは、かなり騒ぎになった。事務所が事件を引き受けていたが、私は担当でなかったので、現場に行っていなかった。ただ、翌日、久保田のオヤジ(昭夫)と一緒に、東京地裁労働部へ抗議に行った。"だから仮処分など出すな。出したら大変なことになる"といったはずだ"と涙ながらに責める久保田弁護士の前に裁判官(大塚)は、ただ悲痛な顔で黙っているだけだった。この事件の後、東京地裁では、仮処分を出すのに慎重になったことは事実である。
 痛快だったのは「目黒製作所」で、弁護士の機知と力量を示した例だった。と言うのは当時の日経連の弁護士のエースだった某弁護士は、仮処分をとり、組合と激突させ、それを利用して警察の刑事介入を計り、組合自体を崩壊させるという戦術を考えていた。目黒製作所の場合も、工場占領している組合に、立入禁止仮処分をとり、執行吏を先頭に工場へ乗り込んできた。工場の周りはおびただしい警察官。あわや衝突という殺気走った雰囲気の中で、何を考えたが東城守一弁護士は組合幹部を組合事務所へ呼び、組合員を全部工場の外へ出せと命令。あっけにとられる組合幹部(僕もそうだった)。ひともめあったが、とにかく東城弁護士の気力と迫力があって、組合員も渋々これに応じた。それからである。執行吏が組合事務所(こちらは東城ほか2、3名)へやってきて組合の占拠を解けと通告。これに対して東城弁護士曰く。「組合は工場占拠をしていない。占拠していないのだから、占有を解けという仮処分は執行できないはずだ、執行不能だ」。緊張した態度でやって来た執行吏はあっけにとられる。「嘘と思うなら見てみろ」と東城弁護士。渋々執行吏は見て回ったが、人っこひとりいない。やはり、これでは執行できないと判断したのだろう、すごすごと帰った。拍子抜けのしたような格好の中で、機動隊もぞろぞろと解散。会社側と機動隊がいなくなった空っぽの工場に、夜になって組合員が三三五五戻ってきた・・・。計画が狂い、あてが外れた日経連の弁護士は地団駄をふんだはず。この後、東城弁護士の策略があり、その使用者側弁護士は再び煮え湯を飲まされる・・・。このくだりは、ちょっと文には書きづらい。ただ、この現場を踏んだ東城弁護士の経験が、後に三井炭鉱大争議のホッパーをめぐる攻防戦で生かされることになる。
 今は自由法曹団と日本労働弁護団の関係は少し遠くなった感じがするが、昔はそうでなかった。警職法反対闘争から始まって、60年代の無数の民間労働争議、全逓東京中郵から東京都職労最高裁事件、炭労三井三池闘争など、戦後日本の主要な労働事件の第一線で闘ってきた全国の労働弁護士は、ほとんど総評弁護団員であると同時に自由法曹団員だったのである。

 
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