自由法曹団 東京支部
 
 
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若手弁護士へのメッセージ 弁護士駆け出し時代と今

南北法律事務所 高橋 融


 私が弁護士になったのは、1961年4月。
 運動は前年の安保闘争の熱気とやる気が残っていた。修習生の時は、今の築地市場のあたり小田原町に地裁の刑事法廷があって、ハガティ事件の勾留理由開示法廷などを見学に行ったことは、今でも忘れられない。刑事事件の修習で見た法廷とはまったく様相が違って、拘留された労働者達は胸を張って堂々と官憲の責任追及をしていた。これと重なるように弁護士一年生になって闘われたのが、政治的暴力行為防止法(セイボウホウ)反対闘争、デモや学生や労働者の逮捕は毎日、その奪還のため弁護士は毎日毎晩サツ周りをし、勾留理由開示法廷が続いた。また、労働組合や職場に通って政暴法案の危険さの解説をして回った。
 これが沖縄返還(沖縄側から見ると『本土復帰』)闘争と三井三池につながって行った。私は沖縄闘争にのめり込み、3年以上沖縄通いが続いた。日弁連の人権委員会の沖縄問題特別委員会に入って、米軍琉球民政府発行の身分証明書と言う名の入境のvisaを取って、沖縄に30回以上通い、さまざまな戦いに参加した。当時沖縄人民党委員長の瀬長さんを訪ねると自宅が刑務所と接していて、同氏が『隣』に出入りをしていると豪気に言っていたのを思い出す。人権は正に政治と関わり、那覇は今のガザのようであった。今かえりみると騒然かつ活き活きしたやりがいのある駆出し時代であった。
 私はいま75才、弁護士50年を過ぎてこの15年余を中国人強制連行事件に関わっている。第2次世界大戦の終わる前年の1944年を中心に約4万人の敵国人である中国の主として農民が、農作業中などに捕らえられ、そのまま銃剣を突きつけられて天津や青島など港湾に送られ、そこから奴隷として船に積み込まれて下関や門司に送られ、北海道から九州までの人里を遠く離れた炭鉱、金属鉱山、地下工場や水力発電用の坑道作業、港湾荷役などで生存のギリギリの食生活、長時間の重筋労働に追いやられ、消耗し尽くすまで奴隷労働させられたのであった。その結果、約一年の間に17%、7000人が死に、栄養不良と不潔から大量の失明者を出した。
 そのため、反乱や抵抗、脱走が相次ぎ、その犠牲者は闇から闇に葬られた。その代表的な事例が、850人が脱走し抵抗して大量の犠牲者を出した花岡事件であり、脱走してから13年間北海道の山野を逃亡し続けた劉連仁事件である。私は劉連仁事件に関わり、この種の事件で最初に請求満額完全勝訴判決を得たことは忘れられない。
 しかし、政府や企業は今この問題全体を解決しようとは考えていない。日本の教育とその結果としての歴史認識がこれでは、アジアと日本の平和は危ういと思うことしきり。
 この文章がみなさんに届く11月7日からの週に劉連仁の長男劉煥新氏が山東省の被害遺族と共に来日、政府と企業に4万人全体についての「事実と責任を認め、謝罪しその証として賠償金を支払う」解決の要請をするが、私もこれに同行する。
 どの50年をとってもそうであろうが、私の弁護士生活の50年を見ると、世界と日本に著しい変化が起きているのに気づく。特にこの1,2年を見ると、一段と動きが激しく速くなっているのを感ずる。人生には限りがあり、もはや格闘までは出来ないかもしれないが、生ある限りこの流れに沿って生きようと思っている。

 
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