若手弁護士へのメッセージ 弁護士の仕事
東京合同法律事務所 谷村 正太郎
1 1961年4月、私は弁護士になった。翌年のある日、先輩の福島等さんに札幌ほか数カ所で開かれる白鳥事件の集会に参加し、事件の解説をするようにといわれた。弁護人ではないし、事件のことは何も知らないからと断ったものの、何冊かの資料を手渡され、この期間手の空いている弁護士は他にいない、君は暇そうだからといわれ、あっという間に北海道に行くことになった。
上野駅からの夜行列車、青函連絡船、道内の列車と乗り継ぎ、20時間余をかけて札幌に着く。その夜の集会で詰め込んだばかりの知識で話を始め10分ほどたったとき、会場内からの「違う、違う」という大きな声で遮られ、立ち往生してしまった。発言した夕張の戸田さんの名は、いまも記憶している。
これがきっかけとなり、私は白鳥事件そして芦別事件の弁護団に参加することになった。両事件とも1・2審は、札幌の杉之原舜一先生が、ただ1人でたたかってこられた。白鳥事件弁護団が結成されたのはこの少し前のことである。以後、私はほぼ毎月1回札幌に通うことになった。南1条西14丁目の先生の事務所に行くと両事件の記録が棚にぎっしりと並んでいる。先生はその記録の全てを精読されていた。打ち合わせの途中で疑問に出会うと先生は、それは誰々の5回目あたりの調書にあったはずだ、といわれ、記録を取り出すとまさにその通りの記載がある。私はただ圧倒されるような思いであった。
先生だけでなく、当時の先輩は皆、記録を読むことに厳しかった。その頃の事務所会議で若手の誰かがその場の思いつきで発言したら、植木敬夫さんに「記録をきちんと読まずにいい加減な発言をするな」と叱責されたことを思い出す。
若いときの「刷り込み」のため、私は弁護士の仕事は、記録を読み、考え、調査し、証人を尋問し、そしてまた、記録を読み、考え、書くことであり、その余は、重要ではあっても付随業務であると思い込んでいる。
2 東京支部ニュース442号に掲載された「1949年から63年まで」で大塚一男さんは、上告趣意書作成のための1955年8月伊東市での20日間に及ぶ合宿について書かれている。
ある機会に、そこにあげられている戦後派弁護士の当時の年齢を調べたことがある。
大塚一男(1期 30歳)、上田誠吉(2期 28歳)、関原勇(3期 30歳)、池田輝孝(4期 32歳)、松本善明(6期 29歳) 柴田睦夫(6期 27歳)(上田さん、そしてここに名をあげなかった合宿参加者は皆故人となっている。)
この若い弁護人たちが書いた上告趣意書(1被告人を1弁護人が責任を持って担当した)は、いずれも最高裁調査官に「詳細且つ焦点を衝いていると思われる力作」と評価され、死刑4名、無期懲役2名、有期懲役11名・刑期合計104年6月」という2審判決を覆したのである。
弁護士が良い仕事するのに期も年齢も関係ない、必要なのは責任感と情熱そして地道な作業であることをこの合宿の経験は語っている。
3 自分にとっては白駒が隙を過ぎるように50年がたった。この間の社会の変動は世界でも日本でも信じがたいほど大きかった。弁護士がどのような事件を担当するかはもとより自分の意志によるが、より大きくは時代の要請で決まる。激動する時代の中で多くの事件に出会い、様々な困難に直面し、時には行く手の道を見出しがたいこともあった。そのとき自由法曹団は私にとって何よりも信頼できる地図であり羅針盤であった。