自由法曹団 東京支部
 
 
トップページ 先輩方のメッセージ

団支部の活動紹介

若手弁護士へのメッセージ 闘いぬいた半世紀余

代々木総合法律事務所 濱口 武人


はじめに
 5年余り前に小脳出血で倒れた後遺症と高齢者特有の諸病状のため、今では活動の第一線から退き一般業務をそこそこ処理している私ですが、今回、編集部から機会を与えられたのを幸いに、一団員がこの半世紀余をどのように生き抜いてきたのか、その断片を語りたいと思います。ご一読願います。

1 軍国少年から戦後民主化の闘いへ
 暮れ行くカラフトの山陰を見つめながら、発動機船の甲板に立ち、剣道の道具を肩に捲土重来を誓った軍国少年、それが私でした。1945年8月、真岡中学2年のときに敗戦を迎え札幌に引き揚げたのですが、戦後民主化の嵐の中で急速に社会主義への傾斜を強めて行きました。特に忘れられないのは、2.1スト中止を告げ「一歩後退、二歩前進」を訴える伊井議長の声涙共にくだるラジオ放送です。それがアメリカ占領軍の圧力によることは余りにも明らかであり、私は胸を震わせて聞き入ったものでした。一時は民主化の期待を抱かせた占領政策は大きく右旋回し、弾圧の嵐が拡がって行きます。
 公立中学は引揚者で満杯だということで、私の転校先に指定されたのは私立北海中学でしたが、それがその後の私の人生に決定的な影響を与えたと云ってよいでしょう。
 北海中学は戦前から「自由と正義」「百折不撓」の校風を貫いてきた伝統を誇り、戦時中、教師・生徒を軍隊や軍関係諸学校に送るときも、軍歌ではなく応援歌の一つ「壮行歌」を唄ったと云います。その第一節には「自由と正義は母校の心、雄々しく起てよ北中健児」という歌詞があり、これを唄うため、日中戦争開始時の在校生たちが配属将校を欺くのに多くの苦労を払った事実が、最近明らかになりつつあります(敗戦当時の在校生が「自由」の意味を理解出来ていたか否かは別として)。
 しかも、1920(大正9)年3月、あの野呂栄太郎が15期生として卒業しているのです。野呂は慶応大学予科に進学しましたが、在学中から革命運動に身を投じ、「日本資本主義発達史講座」発行の中心になる等の業績を残したものの、34(昭和9)年2月19日、特高警察のため非業の最期をとげています。「野呂先輩の遺志を継ごう。」これが民主化への道を駆ける私たちの決意でした。
 北海校創設100年を記念して生徒通用門にも建立されている、「わだつみ像」の制作者本郷新も北中の卒業生です。

2 弁護士になるまで
 私は、引揚後の家計が苦しく、そのうえ遅れて引き揚げてきた父が病身であるために、母が露天商をして生活を支えているのを心苦しく思っていたので、両親には内緒で就職希望を学校に提出していました。革命運動の歴史を見ると金属、印刷の労働者が大きな役割を果たしたと知り、札幌市内では大手と云われる金属、印刷関係の会社を幾つか志望先に選びました。
 ところが、担任の教師がわざわざ私の家庭を訪ねてきて大学進学を熱心に説得し、そのときはじめて私が就職志望を出したことを知った母も進学を勧めてくれたので、どうにか北大に進むことになりました。
 だから、私は、弁護士として労働事件に取り組むようになってからも、労働者諸氏と打合せなどをしながら、「俺は本当はこの人たちの中にいた筈なのだ。この人たちは俺の仲間なのだ」と、繰り返し自分に言い聞かせてきたのです。
 大学進学後も私の運動は続きました。入学直後の5月には、占領当局に対する大衆的な抵抗として有名な「イールズ闘争」が起き、6月には朝鮮戦争が始まっています。
 日本共産党が分裂し、中央幹部が公職を追放され、レッドパージが進行するという状況の下で、学生運動も大きな困難を抱えていましたが、それでも私たちは、真の「独立」と「反戦平和」を目指す闘いを止めませんでした。
 私は教養2年のときに肺浸潤で喀血しましたが、症状が軽くなると活動に復帰し、また喀血する、ということを繰り返しました。だが、何が幸いするか判らないもので、そのために白鳥事件などの弾圧から漏れ、法学部をなんとか卒業出来たのでした。

3 司法修習生となる
 肺結核発病という事態に直面して熟慮した結果、弁護士になり自由法曹団に入ろうと決意を固めました。だが、活動に明け暮れていたため法学の知識が身についていません。そこで大学院に進んで学習を深めることにしました。私を指導してくださった今村成和教授と相談して決めた修士論文のテーマは、「労働委員会の司法審査をめぐる諸問題」というものでしたが、そのことが弁護士になってから非常に役にたったと云えるでしょう。
 私は、10期の司法試験に合格したのですが、闘病のため司法修習生採用申込を1年遅らせ11期の人々と一緒に受験しました。ところが、私だけ採用通知がなかなか来ません。今村教授が親交のある最高裁裁判官に問い合わせてくれたりした結果、私の肺の断層写真を送り、ようやく採用通知が送られて来ました。しかしその喜びも束の間、追いかけるように、最高裁から修習地を「札幌」から「千葉」に変更するという通知が舞い込みました。白鳥事件係属を理由に札幌地検から異議があったというのがその真相のようですが、最高裁側の表向きの理由は「結核の病後にはオゾンの多い千葉が最適」というものでした。おそらく前代未聞の出来事だと思います。
 11期は活動家を輩出し、団や青法協の講演会をもったり、寮や所内に「唄う会」を定着させたり、寮史上最初の「寮生大会」を開いたり、活発な行動をくり拡げました。修習終了時に民主的な諸法律事務所と集団的会合をもつようになったのも、11期が最初だったと思います。

4 団員になってから
 弁護士に登録したのは59(昭和34)年4月。同じ黒田(現・東京)法律事務所に入ることに決まっていた今井敬弥君と日弁連でバッチをもらっていたとき、「主婦と生活社に暴力団が来襲し、上条弁護士が閉じ込められているから、すぐ現場に向かうように」と電話連絡があり、車で駆けつけたのが「仕事はじめ」でした。
 当時、東京では中小企業争議が燃え拡がる一方、経営側は暴力団を導入し、ほとんど全域で激しい衝突が繰り返されていました。また、安保改定阻止の闘いや三池争議も全国を蔽って行きます。東京では各区で、その地域の中小争議を支えるために、地区労を軸に共社両党、諸民主団体を結集した「争議支援共闘」が生れ、それを基礎に「東京平民共闘」が組織されましたが、それは中央に生まれた「安保改定阻止国民会議」の東京版とも云うべきものでした。
 登録したばかりの11期出身者は否応なしにこれらの闘いに参加し、接見に、勾留理由開示公判に、と連日駆け回りました。
 そうした状況下で、3年程東京で修業してから札幌に帰るという私の当初目標は何処へやら、東京に定着せざるを得なくなって行きます。そして、善明さんの衆院立候補を契機に、62年5月3日の「松本善明(現・代々木総合)法律事務所」開設に参画することになったのでした。
 私は、メトロ交通、新宿教習所の長期争議を担当したのをきっかけにハイタク、運輸などの自動車交通産業の組合との繋がりを強める一方、東京、報知、山陽、西日本、毎日、朝日新聞等のマスコミ産業、全国一般、金属・電機関係、原研などの諸組合の労使紛争に係わりました。三菱樹脂高野事件や東芝臨時工事件のように、守る会を主体に組合関係にも支持を拡げて行ったケースとも取り組んでいます。マスコミ関係では、組合の推薦で愛媛新聞や福井新聞等の経営側代理人となり不当競争との闘いを展開したこともあります。また、北海道を舞台に展開された反基地闘争の恵庭、長沼両事件の弁護団にも加わっています。

5 羽田事件弁護団の解散に至るまで
 多くの公安事件にも加わりました。刑事弾圧事件対策、選挙干渉阻止のパトロール活動(善明初当選をかちとった67年総選挙の際、団員や救援活動家の有志も参加し、車を多数動員、「政治弾圧監視隊」のステッカーを貼り警察のパトカーを追跡した「人民パトカー」が最初)などを通じて、国民救援会との連携も深まりました。その中で、救援会東京都本部の幹部だった野呂未亡人塩沢富美子さんとお会い出来たのは幸せでした。
 特に忘れられないのが「羽田事件」です。
 60年1月16日、羽田デモで一般学生を含む79名が逮捕されました。これが「羽田事件」と云われるものです。
 このデモについては、全学連も加盟していた安保改定阻止国民会議の統一を壊す極左的行動であるとして、弁護士の間でも批判の声が強かったと云えます。しかし、自由法曹団や総評弁護団が組織として弁護に当ることは難しいとしても、この行動を理由とする弾圧が安保闘争全体を押しつぶすために利用される恐れがあること、被逮捕者には純粋な意図で参加した一般学生が多く含まれていることなどを考え、国民会議を中傷誹謗しないことを条件に、有志が個人として弁護に当ることになりました。この条件には当時の北小路全学連委員長代理も同意したので、直ちに弁護活動がはじめられました。
 弁護団代表は松本善明弁護士、事務局長には私が当ることになり、最初の弁護団会議で「弁護人が異なる見解を有していても、被疑者たちが獄中にある現在、対等の立場で議論することは困難であるから、当面は、国民会議を中傷誹謗しないという弁護条件を伝えるだけにとどめ、釈放に全力を集中する。議論は釈放後に行う」旨を申し合わせました。
 この申し合わせのもと、約30人の弁護人が二百数十回に及ぶ接見や、裁判官、家族との折衝に奔走し、過労のため発病する者まであらわれました。
 ところが、全学連側は、中央委や臨時大会でこのような弁護の実情を正しく伝えないばかりか、あたかも弁護団が彼らを支持しているかのように見せかけたのでした。
 また、彼らの指導に当っていた共産主義者同盟の機関紙1月21日付「戦旗」第3号は、この事件の弁護を拒否するよう総評弁護団を岩井総評事務局長がどうかつした旨虚偽の記事を掲載し、羽田事件弁護団がその取消を求めても無視し続けました。
 勾留理由開示公判直前の2月18日、最後の保釈がなされて、被逮捕者79名(うち起訴22名)全員の釈放が実現しました。
 そこで、公判対策のため弁護団が被告全員を招集したところ、1回目の出席者は4名、2回目は1名という有様であり、弁護団が出席を求めた全学連代表も出席せず、しかも、出席した延べ5名の被告も安保闘争の統一を守るという弁護団の見解を拒否する状態でした。弁護人の名を騙ってニセ電報を打ったり、無断で保釈条件に違反したりする事例も続出しています。
 こういう諸事実を踏まえ、被告から誠実な協力を期待することが出来ないと判断した弁護団は、4月16日に解散声明を発表するに至ったのです。
 その後ようやく、「戦旗」第29号は前記記事を取り消し、全学連中執も総評弁護団に対し「詫び状」を提出しています。
 さらに、63年2月26日のTBSラジオ放送番組「ゆがんだ青春―全学連闘士のその後」と、週刊誌に掲載された東原吉伸の談話は、60年当時、全学連幹部だった唐牛、東原、篠原、小島らが、田中清玄ほか一部財界人、自民党幹部とむすびつき、また、東京地検検事正野村佐太郎、警視総監小倉謙、警視庁公安1課長三井脩らとときどき会って「フランクな話」をし、「なみなみならぬ温かい感情と同情心」を寄せられていたこと、その一部から数百万円の資金援助も受けていたことを、暴露したのでした。

6 忘れてならない高野山総会
 69年10月25、26両日、高野山で団の全国総会が開かれました。中心議題の一つは「規約の改正」です。
 幹事会は団規約第2条を次のように改正するよう提案しました。
 「自由法曹団は、基本的人権をまもり民主主義をつよめ、平和で独立した民主日本の実現に寄与することを目的とする。団はあらゆる悪法とたたかい、人民の権利が侵害される場合には、その信条・政派の如何にかかわらず、ひろく人民と団結して権利擁護のためにたたかう。」
 これを理解するためには、若干、団の歴史を振り返る必要があります。
 松川事件など占領下で発生した諸事件の弁護をめぐり、GHQの命令が出る前に団を解散すべきだ、という意見が、一部団員から提起されましたが、50年11月9日の団総会は圧倒的多数で解散動議を否決しています。
 その際、新幹事会は団の目的を「いやしくも人権が蹂躙された場合には、被害者の階級、信条、所属政派等の如何に拘らず徹底的に擁護する」と規定するとともに、内外にむけて「圧迫された者の味方となって普く人権を擁護」することを宣明しています。
 ここにいう「階級、信条、所属政派等の如何に拘らず・・・」という文言が、当時の反共分裂主義を否定することを主眼にしたものであることは明白です。
 しかし、情勢は変転し、羽田事件のような極左分裂主義や毛沢東主義者による左翼分裂の横行など新しい事態が生れてきて、50年総会後自由法曹団がとってきた「圧迫された者の味方となる」という路線を、規約上も明らかにする必要が生じてきました。高野山総会に提起された団規約の改正は、このような新しい局面に即応し、「ひろく人民と団結して権利擁護のためにたたかう」という姿勢を明確にしたものでした。
 ところが、二人の団員からこの改正に異論が出されました。彼らは、共産党に支配されている団員たちは被疑者、被告らの思想信条を理由にして弁護を拒否したり入団を否定しているが、それは従来の団規約に違反している、と非難し、自らが反共主義者であることを隠そうとしませんでした。
 しかし、彼らが「思想信条による弁護拒否」と非難する「羽田事件」について云えば、真相は前述したとおりです。そのうえ、彼らの中には弁護人だった者がいないのに、事務局長であった私に何の問い合わせもしていないなど、立論の根拠が事実に反することが明瞭になって、総会では彼らに同調する意見はなく全く孤立し、圧倒的多数が幹事会提案に賛成したのでした。
 その後の団活動の前進は、高野山総会のこの決議がいかに正しかったかを証明するものと云ってよいでしょう。

 
自由法曹団東京支部 〒112-0014 東京都文京区関口一丁目8-6 メゾン文京関口U202号 TEL:03-5227-8255 FAX:03-5227-8257