自由法曹団 東京支部
 
 
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若手弁護士へのメッセージ メーデーとこれまで私がたどってきた道

第一法律事務所 鶴見 祐策


1 はしがき(メーデーについて)
 執行部から若い世代あての文章を依頼されて承知したものの困ってしまった。私には書く中身がない。
 数年前にメーデー参加を呼び掛ける特別報告を書いたことがある。メーデーは、1886年5月1日、アメリカ労働総同盟が「8時間労働制」を要求して各都市でゼネストを呼び掛けたのが起源とされている。5月3日のシカゴでは、武装警官隊の襲撃により、集会に参加していた労働者4名が殺害されたほか多数が負傷したのだ。翌日ヘイマーケット広場で開かれた抗議集会には1500名が集まったが、何者かが爆弾を投げ込んで警官7名と群衆5名が死亡し、負傷者が100名を超える惨事となった。投擲者も不明のまま、ストの指導者8名が逮捕され、7名に死刑、1名に禁固15年が宣告された。事件の捏造が反復され資本側の巻き返しが繰り返されたが、労働側は再度のストライキ(90年)の反撃で念願の「8時間労働制」を獲得する(日本では敗戦後の47年)。
 その3年後にパリで開かれた第二インター創立総会は、ヘイマーケット事件を記念して5月1日を全世界の労働者の統一行動日と定めたのである。つまりメーデーは労働者の「お祭り」ではなく、連帯を誇示する「闘い」の記念日なのである。
 いま日本では労働運動の衰退に乗じて大企業が主導する不安定雇用や「8時間労働」どころかサービス残業の強要が蔓延化しつつある。私の「特別報告」は、労働者階級の不屈の闘いの歴史を想起しながらメーデーに参加する積極的な意義を強調したものであった。

2 第二インターの軌跡と「チボー家の人々」
 時期にも合うからそれを書いたらとも助言もされたが、私にはあれ以上のものは書けない。続けるならば、その後の国際的な労働運動の歴史をたどりたいと思う。第二インターは、欧州各地で10回(臨時も含む)開かれている。そして1914年に事実上終焉を迎える。第一次世界大戦で命脈を断たれる。私には無関心でいられない理由がある。
 敗戦の間もなく(47年)の出版で評判になった小説に「チボー家の人々」(山内義雄訳・白水社)がある。私より前の世代では知る人が多いと思う。訳本でも全11冊に分かれる大河小説である。7冊までは40(昭和15)年までに出版されていたらしい。チボー家の長男アントワーヌと次男ジャックを中心にフランスの小市民の家族や友人らとの交流が淡々と描かれているのだが、翌41年に太平洋戦争が開始されると、その後の部分の翻訳と出版が中断されてしまった。続編の3冊は、「一九一四年夏」の表題で、反戦運動に身を投じた次男が主役だから、戦時下の日本では出版が不可能になったと思われる。しかし、私がとりわけ感動したのはこの続編である。作者マルタン・デュ・ガールが受賞したノーベル賞もその部分に与えられている。
 帝国主義列強が軍備補強を競うなかで労働者階級の団結と連帯を旗印とするインターは、一貫して「戦争反対」を唱え続けてきた。「常備軍の廃止」「国民投票」「公債反対」を掲げて労働運動を指導した。有名な「バーゼル宣言」(12年)では列強の戦争を「犯罪」と弾劾している。それが14年7月に戦争が現実化すると各国の社会主義者に動揺が起こり、自国の利益と自らの理念との相克に苦しめられるようになり、ついに「愛国的熱狂」の渦にのみ込まれていくのだ。とりわけフランス社会党党首(ジョレス)が国粋主義者の凶弾に倒れると、それを境に指導的なインテリも含めた多くの社会主義者が、雪崩のようにナショナリズムに流されていくのである。この小説は、日記風にそれを克明に追っている。ジョレスの暗殺なども次男ジャックの眼を通して臨場感をともなう描写がなされている。
 ジャックは踏みとどまる。兵役志願まで現れる同志と決別し、みずから反戦ビラを作り、飛行機に乗って前線の国境上空から撒こうとするが、その飛行機が墜落して全身火傷の瀕死の重傷を負う。折から退却中のフランス軍に拾われるが、手間のかかるスパイかも知れないとされて射殺される。同胞の手で。11巻目に「エピローグ」がある。軍医として従軍した長男アントワーヌは、毒ガスで侵された身体を病院に横たえている。過去の自省のなかで最後に弟の遺児の名を呼んで終わる。
 私が読んだのは高校卒業の間際だった。貧しかったからアルバイトで捻出した金から古本屋で1冊ずつ買い求めた(残念ながら4冊目だけが今欠けている)。この小説はいろいろな読み方が可能と思うが、私は、理想主義者のジャックの生きかたに深い感動を覚えたものである。進路を決める私の精神的な教科書の1つとなったと思う。

3 いま私が思うこと
 昨年の12月8日(太平洋戦争勃発の日)、中央区で映画「戦争をしない国 日本」を上映する集会が行われた。地元の有志による企画である。その会場で上映のあと主催者を代表する挨拶で私はこう述べた。
 「いまアメリカ発100年来の不況が世界を覆っています。各国政府は、施策に窮して右往左往が実際です。思えば1929年に始まる大恐慌が世界大戦の引き金になりました。日本の中国侵略(満州事変)がその2年後、ヒットラーのナチス政権の成立が4年後、スペインの人民戦線政府の打倒が7年後、そしてポーランド侵攻に始まる全世界を巻き込む世界大戦に突入するのです。たった10年の間にすぎません。最近の情勢は、その危険を肌身に感じさせます。特権をもつ限られた人達が、自からの権益の保全と拡大を図りながら、大多数の国民に真実を知らせることなく、あの無残な戦争へと突き進んでいったことを思い知らされます。だから全く油断できないわけです。」
 世界は、交通と情報の手段が発達したことにより極度に狭隘となったのは間違いない。2度の大戦の時代と大きな違いがある。しかし油断できない。大量宣伝による世論操作の技法は以前の比ではない。だから発火も早いに違いない。
 そのとき私は自らの信条を最後まで貫徹できるか。その問いかけが重みを増している。同時に最悪の事態を許さないため、いま自分にできることを愚直に遺漏なく実行していくことしかないと考えている。

4 弁護士としての仕事
 修習生の当初から同期の仲間と安保の闘争に明け暮れる毎日を送っていた。その余熱が冷めぬうちの若手として開業の早々に様々な弾圧事件に身を投ずる巡り合わせとなった。折から参議院選挙があり、都内だけで逮捕者約100名にも及ぶという非常事態であった。だから私の最初の法廷は、同期の石田享君と安田叡君と3人で臨んだ勾留理由の開示であった。先輩もおらず、何も知らないから無茶苦茶な弁論で1日を過ごした。この事件は、3人で後の公判も担当して無罪の確定判決をとった。私は、ほかに3件の公選法事件を割り当てられた。そのうち1件は高裁で無罪をとったが、最高裁は、検事の上告理由を退けながら法律論の「こじつけ」で逆転させられた。それに対する怒りが、私をその後に起こった多くの公選法事件の弁護に執着させる原因となった。
 戦後混乱期のものでは蒲田事件がある。交番を襲ったデモ隊の主導者とされる人物が中国から帰国したのを機に起訴された事件である。ほかの被告たちはすでに有罪が確定しており、「お前がやれ」と先輩から渡された確定記録を手掛かりに担当することになった。いきなり始まった現場検証に立ち会い、法廷では被害者と称する警察官の反対尋問を懸命に試みたところ、これが意外に成功して我ながら自信を得ることができた。ほかに政暴法デモ事件、砂川行政事件、松川事件再上告審などの弁護団に参加した。そして先輩たちから多くを学んだ。

5 松川事件との関わり
 私が最も没頭したのは、やはり松川の無罪確定後に提起された権力犯罪追及の国家賠償裁判ということになる。東京地裁に専属部(民事33部)が特設された。法務省の検事も専任7名が配置された。元被告と家族の40名が原告。弁護団(原告代理人)の常任は、岡林辰雄さん、池田輝孝さん、中田直人さん、石田さん、それに私。後に榎本信行さんが加わった。延103名に対する人証と現場検証など14年間の刑事裁判を超える証拠調べが集中的に行われた。法廷は週3日の終日だから、私たちは、敵性証人の尋問と厖大な証拠と格闘する毎日を送った。警察庁長官や検事総長も現職のまま証言台に立たせ仮借ない糾弾にさらした。それ自体が責任の追及であった。
 この国賠の審理過程で元被告たちの無実を知りながら、脅迫、暴行、偽計による虚構の証拠の捏造、真実の証拠の改ざん、隠匿、隠滅、偽証など、元被告を「犯人」に仕立てる警察と検察の組織的な不正がより鮮明な形で浮き彫りにされた。刑事裁判で暴露された「諏訪メモ」の隠匿が有名であるが、「来訪者芳名簿」など警察に残された明白なアリバイ物証が刑事裁判の最後まで隠し続けられるなど、まさに「権力犯罪」という以外にない数々の悪業が明るみにされた。東京地裁判決は判示している。「明白な証拠を手にしながら、これを無視して公訴を提起し追行した」とし、「検察官は、その手持ち証拠のうち、結果に影響を及ぼす可能性のあるものは、検察官がそれを信用するかしないかにかかわらず、法廷に顕出する義務がある」「人の生死にかかわる重大事件の審理の過程で、このようなことがおこなわれたということは、まことにおどろくべきことである」「刑事裁判の経過の上に、明白かつ重大な汚点を残した」と。国側の控訴が棄却され、約7年間の闘いは勝利で終った。
 私は、この裁判から多くの教訓を得たが、その1つが警察や検察が、その時の統治権力の意思を迎えようとしたときには、無実と知りながらも犯罪的な手段もいとわず、無実の者を「犯人」に作り替えることも厭わないとの確信に至ったことである。権力行為の「全てを疑え」ということだ。個人的な評価は関係ない。

6 三鷹事件との関わり
 松川と同時期の謀略に三鷹事件がある。先輩の小沢茂さんより声がかけられて死刑囚の竹内景助さんが11年も前に申立てた再審にも関わることになったが、証拠収集と主張をまとめて、ようやく裁判所も重い腰をあげようとした時点で竹内さんは脳腫瘍を発症して亡くなってしまった。拘置所に泊って自発呼吸が消えるのを看取った。
 竹内さんについては正木ひろしさんなどが、単独犯行説をとって他の弁護人たちの方針を批判する見解を公表されたことが知られている。ただ私が接見したつど「勤皇の志士の心情」を引き合いに自分ひとりが罪を着ることで無実の他の被告たちが救われることを願ったため控訴審でも単独犯の自白を維持したと竹内さんは語っていた。松川事件と同様に進駐軍による捜査や裁判に対する干渉が甚だしかった。マスコミは勿論のこと、警察、検察のみならず裁判所にも、その意向が強く深くおよんでいた時代であるから、「空中楼閣」で全員無罪にできない社会的政治的な環境が形成されていたであろうことは推測に難くない。その意味で彼の説明を理解できる。そもそも竹内自白に「秘密の暴露」がない。白鳥決定の今なら無罪の可能性はあったと思う。
 死後に遺族の依頼で「弔い合戦」のような国家賠償を提起したが、死刑確定囚といえども当時の医療水準の給付を受ける権利があるという東京地裁の判決が確定して判例となった。これで死刑囚の処遇が改善されたと聞く。

7 梅田事件の再審との関わり
 無実を主張する被告人の有利な証拠は、裁判所に提出されない捜査資料のなかにある。裁判の公正のためには、検察官手持の証拠の全面開示が不可欠である。その後に日弁連の人権委員会の要請により、私は北海道の梅田事件の再審に力を注ぐことになった。梅田義光さんは、公判で一貫して無実を主張したが、死刑となった真犯人の虚偽の供述で共犯として無期の判決を受けて服役したのである。この事件でも、検察が保有する未提出記録の中から「新証拠」の手掛かりを得て再審開始と無罪判決に結びつけることができた。松川から学んだ成果であった。
 ちなみに無罪が確定した後に梅田義光さんから相談を受けた。熱心な支援者たちから国家賠償の提起を勧められているが、どうしたらよいかというのである。梅田さんを犯人に名指しした男の供述の虚偽と拷問による自白の虚構は余すところなく明らかになっており、提訴すれば勝訴する見通しは明らかであったが、私は反対した。
 北見市議会は、再審開始を要望する全会一致の決議をしていた。市民の大多数が温かい視線で17年目に仮釈放の梅田さんを迎えていた。その雰囲気が新たな証言の発掘も可能にした。被害者の遺体を検視した事件当時の医師による協力が得られ、それが再審申立の新証拠ともなった。周囲の環境が梅田さんを救ったのだ。それを梅田さんに話した。
 事件は昭和25年である。当時は自治体警察だから提訴すれば、北見市を被告とせざるを得ない。市の財政から賠償金を受け取ることに市民の共感が得られるだろうか。提訴するなら拷問刑事の個人を被告にすべきだ。それなら値打ちがある。ただ判例は認めないと。すぐに納得され、その話は消えた。

8 最後に戦争のこと
 顧みると権力相手の関わりが多いことに気づく。警察の違法不当な身柄拘束や盗聴、盗撮、税務の調査権濫用の事件などである。時代の巡り合わせというほかない。
 話が逸れるが、敗戦の日をまた迎えた。私の原点は70年前にあるように思う。当時12歳の私には火や鉄が飛び交う戦場の経験はない。教師から米軍が上陸したら1人を必ず殺せと教えられていたが、そうはならずに終わった。米機の機銃掃射が至近に着弾した一瞬もあったが、私が標的ではなかった。
 3月10日翌朝の記憶はある。暗い煙が空を覆う街道を人列が黙々続く光景である。着物も顔も漆黒だった。本当に見たのか。幻のように今は思える。千葉市の空襲はその後だ。ひと夜で市街が廃墟と化して大勢が亡くなったが、郊外は被災を免れた。数日後に市内に入ると各所にまだ炎が残っていた。訪ねた学校は完璧に消滅していた。路上の焼けトタンから片手がのぞいて見えた。
 今でも開かれる国民学校の同窓会では罹災経験の話題に種が尽きない。
 「終戦」は、幼い私の理解力を超えていた。戦争とは人が始めて人が終わらせるものと知るまでに相当の時間を必要とした。さらなる驚愕は、大人達の変わり身の早さだ。軍国教育を競った教師ほど、進駐した米軍と民主主義の賛美者となった。生徒の不信が嵩じて授業拒否にも発展したほどだ。これも同窓会の尽きぬ話題である。
 戦争を終結させた者と戦争を開始した者は同じ限られた人達であった。国の内外に、山に、海に、街に、自らの亡骸を晒した無数の人々とは別の特権階級の人達である。そして真の責任を問われず生き残った。それが、今に続く道義的の頽廃の原点であろう。
 被害者を悼む気持ちは当然だが、やはり「無駄な死」であった。それを感傷で包むのは危険である。無責任のDNAを引き継いだ連中が、それに便乗してくるからだ。一昨年8月15日の朝日夕刊の「窓」欄の「老兵士の戦争責任論」が目についた。「戦争を指導した連中は、昭和天皇が責任を追及されないなら、おれたちだって免責だと考えてしまった。日本の倫理的な腐敗がそこから始まったと思う」とある。私の年来の思いと同一である。

 
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