自由法曹団 東京支部
 
 
トップページ 先輩方のメッセージ

団支部の活動紹介

若手弁護士へのメッセージ 怖かったこと

尾山 宏


 私の弁護士になりたての頃の体験を述べて若い皆さんのご参考に供したい。
 私が弁護士になった1956年頃は、戦後のシュトルム・ウント・ドランクの名残りのある時代だった。
 弁護士になった早々に、砂川基地闘争にかり出された。総評傘下の労働組合員と全学連の学生が中心で、私たち若手弁護士は全学連の隊列の先頭にいた。われわれの前方100メートルもないところに機動隊がすわっていた。そのうち指揮官が「立て」と命令し、彼らは立ち上がった。座っていた私たちも立ち上がった。
 「かかれ!」と指揮官が叫ぶと、彼らが警棒を振りかざして私たちに襲いかかってきた。
 この時はさすがに「怖い」と思った。彼らは弁護士には絶対にかかって来ない。その後何度か似たような経験をしたが、いつも警官隊は弁護士に手を出さなかった。だから弁護士は安全地帯にいたといえるが、それでも乱戦の最中に仲間の弁護士が肥え壺に落ちた。当時は田畑のなかにいくつも肥え壺があつたのである。
 その後58年12月に、高知県教組の勤評闘争やそれに対する刑事弾圧反対闘争に参加したが、その時はもっと怖い思いをした。
 当時私は愛媛県教組の勤評反対闘争や、これに対する刑事弾圧事件に対処するため、日教組本部の要請で松山に常駐していた。1人で高知に赴くと、関西の弁護士が10人近くすでに高知に入っていた。大阪組は高知市で県教組幹部の面接・釈放要求にあたり、私は1人で愛媛県境の山中の僻村に向った。当時の小林武委員長襲撃事件の告訴・告発の準備をすべく、村人たちに会って弁護人録取調書の作成に当たった。
 その間、当時の社会党衆院議員3人がやってきて、事件のあった村に入って調査をするというので同行した。小学校の集会場のようなところに村民が集まっていた。そこは土間でむしろを敷いて座っていた。講壇のようなところがあって、その上で議員が村民に話をしていた。私は講壇の下、左手の椅子に座っており、私服警官らしい人が1人その辺を歩き廻っていた。
 と、突然、座っていた村民が一斉に立ち上がり、講壇に詰め寄り始めた。しかも無言である。叫びながら迫ってくるのも怖いが、無言のまま迫ってくるのはもっと怖い。
 途端に、議員が演壇を降りて逃げだした。後は完全にパニックである。われ先に逃げ出した。私も後について外に出た。
 外には車が何台か待っていて、議員や同行者は、争うように乗り込んで去って行った。
 私はひとり取り残されたーーと思って振り返ると、当時香川県教組の委員長であった(書記長?)大林浅吉さんがいて、2人で歩いて帰った。大林さんが一緒で大変心強かった。
 その間結婚して間もない妻も松山に来て住んでいた。長男は松山の赤十字病院で生まれたが、私は高知に行ったまま帰ってくる気配がなく、ひとりで大晦日を過ごし、正月を迎える覚悟をしていた。しかしなじみのない松山でのこと、随分心細かったと思う。
 大晦日の午後4時半頃だったと記憶する。逮捕されていた高知県教組の幹部会員が釈放され、県教組の会館で皆で祝杯をあげた。6時過ぎに県教組がタクシーを呼んでくれて、松山への帰途についた。四国山脈を越えたあたりで元旦となり、松山市街地の灯が見えたとき、ホッとしたことを、今も昨日のように憶えている。
 その後、学テ(学力テスト)、主任制反対闘争と続き過激な出張の繰り返しが30年に及ぶことになる。

 
自由法曹団東京支部 〒112-0014 東京都文京区関口一丁目8-6 メゾン文京関口U202号 TEL:03-5227-8255 FAX:03-5227-8257