自由法曹団 東京支部
 
 
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若手弁護士へのメッセージ 日本の司法の歴史的実態を知っておこう
 百里基地訴訟の体験と欧米の司法を通して見た日本の司法とは

四谷法律事務所 池田 眞規


はじめに
 明治天皇に直属する太政官政府が、欧米にならって憲法を制定したのは明治22年(1889年)。制定した大日本帝国憲法は「天皇は神聖にして犯すべからず」に始まる天皇主権の憲法である。この憲法理念の下で、裁判官は行政の一部である司法省の監督下にあった。このように戦前の日本の司法の独立は、民主主義の裏付けのない、欧米近代国家の三権分立の形式のみの真似ごとに過ぎなかった。これが敗戦(昭和20年)まで続く。日本が降伏した翌年の1946年11月には、早くも国民主権を宣言(前文)した新憲法が公布された。この憲法は国民主権を宣言し、司法の独立を規定(76条)した。この憲法の前文、非軍事・戦争違法条項(第9条)と人権条項は、核時代における人類が到達した最良の普遍的価値を含む憲法であることは疑いない。しかし、この憲法は、米国のアジア戦略拠点として永続的支配という米国の重大な国益を確保するために、天皇の戦争責任を免責し、かつ、長年の戦争に疲弊した日本国民の渇望する非戦条項を入れた平和憲法を提供することによって、たまたま当時の米国の国益と日本の国益が合致するという奇跡的な好条件のもとで実現した。したがって、国際情勢の変化で、米国の国益が変化すれば、これに連動して、米国に従属したこの国の憲法の最良の普遍的価値は、米国にとって悪しき障害物となる不幸な運命が待ちうけていたのである。新憲法に記載する「司法の独立」の規定も、米国と米国に主権的に従属する(日米軍事同盟)日本政府の国益の変化に対応して、悪しき影響を受けることになる。さらなる弱点は、天皇主権のもとで、明治、大正、昭和と3世代にわたり叩きこまれた「権力に従順な国民意識」は、敗戦後に国民主権の憲法が制定されたからと言って容易に変わりようもなく、個人として権力に抵抗する民主主義の基本理念は日本国民には未だ十分に育っていない。したがって、憲法制定後、米国の国益(特に対ソ、対中関係)が大きく変わるまでの一定に期間には、司法の独立は得られたかに見えたが、日本の司法の独立の実態としては余り進歩していないのが現状である。
 私の法曹体験から日本の法律家に必要なことは、この現状認識だと考える。

1、最高裁まで31年を要した百里裁判の体験から司法の変遷の転換を見る。
 百里裁判の焦点は、航空自衛隊の百里基地用地買収行為は「民事上の私的契約であるから憲法の適用は無い」と主張する国側の主張と、「国の買収行為は憲法9条に違反する」という農民側の主張の激突の闘いであった。
 百里裁判の一審(水戸地裁)19年間の前半は、国側の主張を支持する裁判官の訴訟指揮の実現を法廷の弁論で阻止し、裁判官を説得する弁護団の死に物狂いの闘いであった。
 弁護団は「憲法裁判を公正に審理することを期待出来ない」という理由で、1963年から8年間にわたり5回に及ぶ裁判官忌避申立を経て、ようやく、自衛隊違憲論の弁論を展開する機会を勝ち取った。実施した弁論の内容は、自衛隊違憲の審理の必要性及び自衛隊の実態論と違憲論である。この弁論を1968年10月から翌年7月まで連続7開廷(1開廷は午前午後終日)延べ38時間にわたる弁論を展開した。この間、裁判官は弁護団の論述に一切干渉はせず専ら聴取するのみ、傍聴は無制限で通路まで座り超満員が続いた。
 弁論が終わるや、1971年、裁判長はついに自衛隊統合幕僚会議の高官ら4名の外、学者、軍事評論家などを証人として採用を決定をする。弁護団は自衛隊高官4名の尋問に全力投入し、13開廷日,延べ72時間にわたる徹底的な尋問を実行した。自由法曹団の仲間からも「そんなの無理だよ」と言われた民事裁判を憲法裁判に転換させることに成功したのである。弁護団が闘えば、裁判官は一定の譲歩をすることが可能な時代であった。また百里裁判の一審では、法廷での弁論状況の録音はすべて自由であった。私がそのテープの大部分を現在所持している。次にやってくる司法反動が始まる前の法廷は、傍聴の制限はなく、腕章の着用、録音、裁判官へ訴訟進行についての意見も自由であった。

2、自衛隊違憲「長沼判決」から司法反動が始まり、百里裁判に影響が及び始めた。
 1973年9月7日、札幌地裁が長沼ナイキ基地訴訟で「自衛隊違憲判決」の判決が出る。これに衝撃を受けた最高裁は、日米の支持的国益に照らし、直ちに司法行政に対し露骨な干渉を開始したのである。司法の反動化である。この影響で百里裁判の証人調べの後半、長沼判決が出た年の9月27日の弁論(奥平康弘教授の尋問予定)の当日、裁判長は、突然に、従来認めていた傍聴人の腕章の「取り外し」を命じた。弁護団と傍聴団が一丸となって抗議した結果、当日は裁判長は一方的に退廷して閉廷となる。次の弁論の同年11月1日(浦田賢治教授の尋問予定)になると、裁判所は突然に傍聴券を初めて発行、傍聴人を制限した。法廷で弁護団は、傍聴券発行の抗議と前回の裁判長の腕章問題の訴訟指揮を糾弾し、弁護団と裁判長の間で激しい論争となり、傍聴団も怒り、裁判長を糾弾したため、裁判長は退廷命令を乱発、退廷に応じないため、ついに県警機動隊の出動となった。当日は、法廷が荒れることを予想して、東京地裁から臨時に法廷警備員を水戸地裁に派遣して警備態勢を組んでいた。最高裁の指令であることは明らかである。
 こうして最高裁の下級審の裁判官に対する露骨な干渉の始まったのである。それでもなお、弁護団は、総力を挙げて1977年の一審判決に向けての最終弁論のために、八十万字800頁の最終準備書面を準備し、陳述の時間を1日午前午後終日で7日間を要求した。裁判長の強い抵抗によって半分の3日で妥協することになった。このように、次第に裁判所の法廷での権力行使が露骨になりだした。

3、日本の司法の独立の崩壊の実情
 その後は、御存じの最高裁による青年法律家協会加盟の裁判官(当時司法修習生500人の半分は青法協会員であった)に対する執拗な脱退勧告、司法修習生代表の罷免、宮本裁判官の再任拒否、長沼判決をした福島裁判官の福島家庭裁判所への見せしめの転勤など留まるところを知らない司法の独立の崩壊と堕落が続き、現在に至っている。一見、公正に見える日本の司法の実態は公正とは無縁である。

4、日本の司法の独立の障害物は最高裁が全裁判官の人事権による支配である。
 裁判官も憲法第22条の居住の選択の自由を保障されている。最高裁は裁判官の人権を侵害しているのであり、裁判官は最高裁の任地の指定を拒否できるのである。私は1986年に、ギリシャの裁判所を訪問した際に、裁判官組合の事務所に案内されて驚いた。「裁判官組合の目的の第一は司法の独立を守るためである」と言われてショックを受けた。さらに、フランス、ドイツ、スペインでも裁判官の組合があることも分かった。ギリシャの裁判官は「裁判官に対する干渉は多い。干渉を受けた裁判官は、司法の独立を裁判官個人では守れないのだ。だから、干渉があれば組合の問題として解決するのが当然のことである」という。極めて当然の論理である。「日本の裁判官は最高裁の人事移動の指令で3年ごとに移動する」と言うと、「日本の裁判官には居住の選択の自由は無いのかね」と驚き「自分の権利も守らないで、どうして他人の人権侵害の裁判ができるのかね」と不思議そうな顔をするのである。
 このような日本の司法の情けない後進性は、日本の「司法の独立」の最大の障害であることは、日本の若い法律家は肝に銘じておくべきである。
 日本の裁判官は、検察官と同じように余り信用できない人種であることをお忘れなく。

5、日本の司法の将来展望
 権力機構というものは、内部に矛盾を抱えると内部崩壊してゆく、というのが歴史の法則であるということを想起して欲しい。核時代において最良の普遍的価値を理念とする日本国憲法の理念から判断すれば、現在の最高裁判所が「高度に政治的な課題について司法は判断するべきではない」という統治行為論を維持して、結果的には、日本政府の「日米軍事同盟による高度に政治的な立場」を擁護するために、一貫して9条問題特に自衛隊違憲判断を回避する、という政治判断をするという矛盾を内蔵してきた。それがソ連の崩壊、米国の経済危機、9・11テロ、中国・インドの発展途上国の登場という世界の状況の変化に対応して、日米の軍事同盟的関係は、根本的な見直しが必要となる時代に状況は変化してきたのである。
 古き時代の日米関係に固執する限り、政治的思考によって司法の反動化を進めてきた最高裁の司法行政は、内部矛盾を抱えていることは間違いない。その兆候はすでに日本各地で原爆症認定集団訴訟の21連勝、名古屋高裁の中東派遣の違憲判決、刑事事件の相次ぐ無罪判決、それに呼応するかのような検察庁内部の腐敗の実態が表面化した特捜部検察官の逮捕事件など、一部の良心的な裁判官の判決、検察庁内部の腐敗の内部告発は、時代が確実に変化を始めている兆候である。私ら在野法曹は、憲法の基本理念を基準にした運動を、国民の生活のなかで広めて行くのが日本の司法の独立を実現する初歩的な仕事として考えるべきだと思う。私はそれに付け加えて、核時代において人類が生き残るには「核戦争の被害者の声を世界に広げる」必要があると考える。これは日本しかできない仕事である。
 在野法曹も、日弁連が裁判所と検察庁の連合した反動攻勢に太刀打ちする先頭に闘う会長として宇都宮健児弁護士を選んだことは将来展望を期待したからである。
 われわれは、希望を持つことが出来る時代に生きているのだ。

 
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