自由法曹団 東京支部
 
 
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団支部の活動紹介

若手弁護士へのメッセージ 1949年から63年まで

大塚 一男


 1949年6月8日、東京弁護士会より入会登録完了との通知をうけ、中旬上京して、京橋の自由法曹団本部事務局で入団の手続をして、毎日のように本部に通う。
 当時、東京都議会で公安条例案を審議していて、組合などの反対運動ももりあがり、都議会におしかけていた。都交通局関係の労働者が警察の取り締まりの中で階下に転落して死亡、右は取締側の行為によるものとの声が出ていた。
 労農救援会では、右事故の目撃者によびかけてかなり証言が集まっていた。その人達から状況を聴いて調書を作成することを自由法曹団に要請してきた。その仕事を私がやることになってしばらく救援会にでかけた。話を終えたところで告発したが、時間をおいて退けられた。日本の救援運動の歴史をつくってこられた難波さん、大田さんにお目にかかれたのが私としてはありがたいことだった。
 それからしばらくして、福島県平市の近くの矢郷炭坑で労働争議(立入禁止仮処分)が発生したので、平への出張を、総務係の小沢茂幹事から命ぜられ、さっそく出かける。組合で地元の大嶺弁護士に相談していたので、共同してことにあたる。立入禁止仮処分に異議を申し立て、停止をとって、後は弁論に出廷すればと思って帰京する。
 後で知り得たことだが、平駅そばの道路使用許可を得て共産党の設けた掲示板が、民衆の注目を集めているのを見て米占領軍が即時撤去(月内)を平自治署に命じ交渉が行われた。(許可期限は7月中旬)。その大詰めの交渉が6月30日遅くまでやり合っていた月が変わって7月にはいるや、権力はこれを騒乱罪なりとして、逮捕にのりだし、7月末ぐらいまでに150名以上を福島地方裁判所(本庁)に起訴した。
 私への要請もあり、かけつけ、勾留理由開示を請求し、立ち会って不当弾圧と批判を展開したが、広域にわたり、多人数の被疑者に弁護人一人で対処できず、本人並び利害関係人の手ですすめるほかなかった。
 7月15日、東京の中央線の三鷹駅で無人電車暴走の三鷹事件が発生した。捜査当局は国労三鷹の指導者飯田七三氏をすぐに捕えた。団本部事務室にいると、救援会から電話があり、「会議をしていた飯田さんを捕まえたほどだから、その会議参加者にも逮捕がおよぶかもしれないから、かれらの供述とっておいた方がいい」との連絡がはいった。そこに居合わせた岡崎一夫、岡林辰雄、大塚一男の三弁護士が直ちに中央線で三鷹駅に向かい、当夜の会議の会議場になった家で集まっていた参加者から手分けして供述調書を作成した。
 この行動を後で知った東京地検の幹部たちは、弁護側の行動の速さに驚いたらしく岡崎、岡林はすぐわかったがもう一人弁護士らしくもあり、違うかもしれない人間がいた、と地検側で言っていた、と後に青柳盛雄氏と三鷹事件主任になられた小沢茂氏が言っておられた。調書は自分たちの作るものときめていた検事たちが、自由法曹団の行動の素早さに驚いたのか。
 7月までに、平事件被告として150名以上が起訴され、9月からの公判という状況になった。8月初旬、はじめて東北線に乗って被告面会に福島拘置所へ赴く公判は9月初旬からで、50名ぐらいづつ三班に分けて開廷する。弁護人としては岡林辰雄、大塚一男の両名と、特別弁護人三名の許可を得るようにすると方針を伝えた。。
 以上を伝えその夜は飯坂の国労関係施設に一泊する。その際に接待してくれた人(阿部市次氏)から、国労首切り反対のたたかいで、「伊達駅事件」で起訴されたものの弁護も引き受けてもらいたい、の要請あり。これを承知し、弁護人選任届けの用紙を渡し、大塚が弁護人となることを引き受けた。
 帰京しお盆休みで帰省していたところ8月17日午前三時すぎ、東北本線松川駅付近で上がり旅客列車脱線、てんぷく乗務員3名死亡と報ぜられ、つい先日利用したのだがと想う。松川事件の発生である。
 9月初旬、平事件公判はじまる。1グループ3日ほどづつ開廷し、9月20日ごろ、岡林、大塚両名は、福島を離れる。赤間自白を証拠にして、22日朝、松川事件、第一次検挙となる。大塚にすぐ現地へと求められたが、予定あり動けず。秋田行きの北村敏夫弁護士が、途中下車して、本田被疑者らにあう。(本田は接見で、特別弁護人に組合から鈴木信氏を頼んでくれと述べ北村弁護人おどろく。同じ日、鈴木信氏もとらえられているからだ。)
 北村氏の去った後(氏の伝言として、「警察では盗聴器を使っている恐れあり、「要注意」とあった)、大塚は28日夜福島到着した。29日、まず赤間被疑者の接見で保原署へ行く。(赤間の伊達駅で事件の弁護人にはなっているが、面会ははしていない)署側は、他署の預かり事件で合わせられない、とかツベコベ言う。こちらは会わせないと弁護権妨害の犯罪となるぞと強く言い、署は赤間を連行してきた。その場所は署長室のとなりの室で、立ち話となる。弁護人の接見に立ち会うと犯罪になるぞと強く言うも署長は立ち去らない。赤間は自ら語り出し、伊達駅事件(刑は3年以下の懲役)の裁判はどうなるのかと心配そうにしきりに問いつづける。それ以上話を聞く必要はないと感じた。立ち会う署長に対しては、弁護人の接見の自由を侵した署長の責任は追求するぞと告げて、引き上げた。その夜、犯罪に対する告訴状をまとめ、翌日、福島地方検察庁に提出し、記者団に発表した。地元紙では保原署長うったえられたと大きく報道した。
 10月5日、翌6日の勾留理由開示公判に備えて、再び保原署に接見に行く。本人の兄、赤間博氏も同行する。この日は、被告訴人の署長は不在で次席が代行する。「どちから先に会われますか」と問うてきた。私は博氏に、時間をかけてゆっくり話すようつげ、兄から会うこと知らせた。兄の接見はかなり時間をかけたので、私の接見は、あすの法廷では、「何も言いたくない」の発言ですませることもできると告げて短い接見をすませた。
 福島への帰途、兄の接見には誰も立ち会わなかったとしらされ、先日の署長の告訴の効き目があったか、と驚く。そして兄に今日すぐ陳述書をまとめるよう指示した。兄、弟のやりとりの状況などを書くように伝えた。
 松川裁判が最高裁から仙台高裁に差し戻されてから、山本薩夫監督制作、新藤兼人氏脚本の劇映画「松川事件」では兄弟対面の場面は、兄の陳述書のとおりになっていて、見る人の心をとらえる感動的場面となっている平事件公判進行中、何回も松川被疑者の逮捕が繰り返され、平と松川に弁護活動が2分されてしまった。岡林が平公判に終始在廷し大塚は随時、平法廷を抜け出して松川関係の調査、証拠確保、被告人との面接、家族への説明にあたることがおおくなってゆく。
 私のこうした活動への補助者として秋田にあって北村弁護士の活動の補佐をしてきた小沢三千雄氏が福島へ来てくれた。
 10月中旬の第一次起訴から日をおいて二次、三次、四次と逮捕、起訴がつづいていく。
 11月、福島地方裁判所刑事部(長尾裁判長)は、平事件の審理を中断し句留中の平事件被告を執行停止で釈放した。
 松川公判がスタートできる状況となった。ところが検察庁は明年からの開廷を執拗に求め続ける。東京の三鷹事件公判がどんどんすすんでいるのにおかしいではないかと、弁護団声明を発表して追い込んでいった裁判所も年内開廷と決断せざるを得なくなる、なぜ検察が明年開廷にこだわっていたのか、理由もわからずきた。各地から応援検事を求めた捜査の不出来で、一部自白した年少被告人らをさらに証人として取り調べてとりつくろって公判にのぞみたい、公判開廷して本案の被告人陳述がはじまると、証人尋問がゆるされないことを計算しての策動である。
 その年もおしつまった12月5日、開廷となり、起訴状朗読のあと、一通りの求釈明をして、答弁を引き出し、直ちに被告人諸君の本人陳述へと進んでいった。三鷹事件の公判では、起訴状朗読前から、検察の責任追及等が、布施辰治弁護人を先頭にして続けられたと記憶する。
 三鷹と松川の二つの公判の進め方の違いは、それぞれに理由があったのだ。松川公判では、岡林、大塚を中心に国会議員になられた梨木(石川)、加藤充(大阪)、田中堯平(山口)の各氏が初期の頃、よく通ってくださったし、林百郎氏も最終弁論に出廷された。
 一審判決は全員有罪(死刑5名)、即日控訴し、救援運動に乗り出されたリーダーなどから全国に広く弁護依頼をなすべしとの発言もあって、仙台高等裁判所の二審法廷は、活気に満ちていた。しかし自称「確信判決」の二審でも、一部(国鉄側の武田、岡田、斉藤)無罪で17名有罪(死刑4名)という判決となった。
 即日上告し、東京にある最高裁判所が決戦場となる。岡林、大塚の所属する東京合同法律事務所(一審判決の翌月スタート)は、責任の重大さを自覚して、戦前の三先輩と修習1期〜6期の戦後派が東京での闘いの大切さに全力あげて取り組むことにした。有罪判決検討会合には、都内住まいの上村、神道の長老方もよく参加して下さった。こうして上告趣意書(提出期限昭和30年9月末日)仕上げの伊東市での20日間合宿に、参加可能なメンバー全員で担当テーマを仕上げることができた。
 戦前派長老の小沢茂氏、戦後派のいきのよさにあふれた上田誠吉氏の合宿でじっくり腰をすえて労作をまとめ上げた姿を懐かしく思いだす。松川60周年を経過した今日の時点で、右合宿参加者で生存しているのは、関原勇(3期)、池田輝孝(4期、病気で先年弁護士登録抹消)、松本善明、柴田睦夫(以上6期)と大塚(1期)だけになってしまった。
 この趣意書合宿の精進によって松川弁護団を下支えする底力がぐんと強くなり、弁護団の集団指導体制が確立されたのである。それが真実の勝利に到達できた一因と言えよう。
 一、二審有罪、極刑というでっち上げ判決を粉砕できたのは、はじめて合同法律事務所なるものをつくって(1951年1月スタート)、松川勉強会、研究会と重ねていって、権力犯罪を打ち倒す力の下働きとして心を一つにして戦い続けた成果を忘れることはできない。東京合同法律事務所よ、ありがとう。以上をもって私の報告とする。

 
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