自由法曹団 東京支部
 
 
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若手弁護士へのメッセージ 私が米軍や自衛隊の裁判にハマリこんだ事情

東京本郷法律事務所 内藤 功


■私の場合は、戦争体験が行動の原動力となっている。1944年12月、東京湾品川台場の海軍経理学校で生徒採用試験を受けた。前日に校舎の位置確認に行った(今の東京海洋大学のところ)。正面玄関の菊花の紋章に敬礼して帰ろうとしたら、「おまえ覚悟してきたのかい?」という声がした。誰だろうと見ると、衛門番兵の水兵さんだ。剣付き鉄砲を右手に支え不動の姿勢を崩さず「覚悟してきたのかい。それとも憧れてきたのかい」という。抑えた低い声だ。「覚悟してきました」と言うと、私の頭のてっぺんから足の先までジッと眺めていたが、それ以上何も言わなかった。
 1945年4月、奈良県の海軍経理学校橿原分校に入校した。入校の4日後には戦艦「大和」が沈められた。6月23日、沖縄の組織的戦闘は終結した。7月に入ると、本土決戦に備え陸戦訓練が多くなった。棒地雷を持って戦車に飛び込む自爆攻撃だ。銃剣術の訓練では、南方の陸戦隊帰りの兵曹長が「内地ではこんなワラ人形でやってるが、戦地では、捕虜を突いている。心臓を一撃で刺す。エグルように抜く」と話した。
 6月頃、「軍制」の講義で、O教官は「貴様たちの中で将来戦争がなくなると思う者は手を挙げよ」と言った。誰も手を挙げない。するとO教官は「昔ドイツにカントという人がいて、戦争も軍隊もなくなる世界がくるといってるんだよ」と話した。この戦況下でなぜそんな話をするか理解できなかったが、妙に心の底に残った。そういう清勢の中で1945年8月15日、ポツダム宣言受諾の昭和天皇の放送を聞いた。
 海軍は解散、10月に海軍経理学校は閉校、生徒は「差免」。軍備なき日本をめざし、勉強のやりなおしとなった。片っ端から戦争の歴史を読んだ。310万の尊い生命を奪った戦争。絶対に繰り返してはならないという考えは、次第に不動のものとなった。
■1950年朝鮮戦争の頃から、再軍備の動きが顕著になった。もし海軍に戻れと言ってきたら、憲法9条を理由にことわろうと構えていたが、結局来なかった。次第に、憲法を学ぶうちに、憲法を使って再軍備を阻止できないか、訴訟はできないかと考え始めた。
 1957年の砂川刑事特別法事件では弁護団は未だ精緻な憲法理論構成はできていなかったが、元気だけはよく、法廷で常に憲法前文、9条を引用して、米軍基地拡張は核戦争のためだ、被告の行動は平和憲法に基づく正当な行為だと強調した。59年3月30日の東京地裁刑事13部の米軍駐留違憲判決は、伊達秋雄裁判長ら裁判官の識見に負うところが多い。この判決から学んだところは多い。それは次の恵庭裁判に活用され結実した。
 伊達判決の真髄は、駐留米軍は米戦略の必要上日本国外に作戦でき、日本は戦争に巻き込まれる、憲法前文の、政府の行為により戦争の惨禍が起こることのないようにとの精神に反する。このような米軍の駐留は、日本政府が施設区域を提供し、予算を支出して初めて可能なのだから「日本の戦力の保持」に該当する、という論旨で、今日に通用する。
 現実の米軍の実態は、台湾海峡や朝鮮半島への核積載艦艇、航空機の出撃ひとつをみても、この論を裏付けるものである。砂川事件の経験から、米軍自衛隊の実態の研究調査と資料収集、証拠づくり、専門家の尋問がこの種裁判に不可欠だということを学んだ。
■1962年、恵庭事件が起きた。北海道島松演習場隣接地で牧場を営む野埼さん兄弟が大砲の実弾射撃に抗議して通信線を切断し自衛隊法の防衛用器物損壊に問われた事件である。無罪をかちとるためには罰条たる隊法121条の違憲無効を主張せざるをえない。それには自衛隊の実態審理を通じて違憲を立証せざるをえない。証拠に苦慮していたところ、弁護団冒頭陳述・立証計画開示の直前に、自衛隊の秘密作戦計画「三矢研究」が国会で暴露された。その資料や議事録を弁護側の証拠として提出するとともに、自衛隊の責任者たる田中義男陸将の喚問を迫り、2日間の論戦の結果、証人決定をかちとった。
 自衛隊実態の尋問に備えて自衛隊の作戦計画、組織、編成、装備、訓練、対米関係等を研究したが、その成果を、352枚のハガキ大のカードに記載して、常時手元に置いて尋問や陳述のときふんだんに引用した。論戦用の「弾薬(資料)」は、じつに豊富だった。
 弁護士として国の最高法規を根拠に、憲法に反逆する相手を糾弾することは、太陽を背にし風上に位置する有利な態勢だ。これほど痛快なことはない。恵庭、百里、長沼の弁護団の雰囲気は、士気旺盛で底抜けに明るかった。
■恵庭事件を担当することになったとき、或る先輩は「今の裁判所で自衛隊違憲判決が出るだろうと甘く考えてはいけない。しかし、ひるむことはない。生活を守るため軍隊を恐れず立ち向かった野崎兄弟の面魂(つらだましい)を法廷の内外で明らかにする。軍国主義復活阻止の上で、弁護団の任務じゃないか」と言われた。「ヨシこれなら俺にもやれるぞ」と確信ができた。恵庭長沼10年間の闘いを支えたのはこの一言であった。
 渡辺良夫団員(故人)は「僕は百里や恵庭へ行くのは手弁当だが、ちっとも辛くない。百里に行けば農民の人たちに教わる。恵庭の野崎さんからも学べるんだ」と語っていた。
 04年から08年にかけ11箇所の地裁で闘ったイラク派兵差止め裁判では、こうした砂川・恵庭・百里・長沼の教訓が弁護団会議で常に語られたので、力になったと思う。
 いま、日米同盟の深化の名の下に、米軍基地の沖縄県内および本土への拡大、演習訓練の被害増大など、平和的生存権を侵す動きが急だ。これと闘う上で、法律実務家の出番が多くなる。とりわけ若手弁護士の方々の新鮮な発想に基づく活動を期待してやまない。
★参考資料として、私が、2009年9月、砂川・百里・恵庭・長沼の経験を2時間半語った話を収めた「内藤功・自衛隊違憲訴訟の歴史と平和的生存権」(「不戦」2010年春季号・153号。不戦兵士・市民の会発行)がある。
(10・7・12記)

 
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