自由法曹団 東京支部
 
 
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サマーセミナーin甲府の記録(その1)


※今回のセミナーは大変中身が充実しており、全講演録を掲載すると1号では分厚くなりすぎるので2号に分け、今回は山田教授の講演を掲載いたします。なお、文責は支部執行部にあり、先生に内容の確認をいただいておりません。


韓国併合1 0 0 年を機に東アジアの平和を考えよう
「坂の上の雲」の時代から現代東アジアの平和を構想する

明治大学文学部教授山田朗先生のご講演


 日清日露戦争から現代東アジアの平和を構想するというところでは、日露戦争の捉え方が重要だと思います。今年は韓国併合・大逆事件から100年ですが、日露戦争の目的は韓国での優越権をロシアに認めさせるためでした。
 日露戦争は実態としては第0 時世界大戦ともいえる戦争=第一次世界大戦を準備した戦争でした。開戦当時はイギリス、ロシア・フランス、ドイツ・オーストリアの3 極構造になっていましたが、日本がイギリスの代理として日露戦争が行われてから英露の協力体制に移行して世界がイギリス中心陣営とドイツ中心陣営の2 極構造へ移行してゆき、第一次大戦へと進んでゆきます。大きな枠組みの変化の中での戦争でした。
 イギリスなくして日露戦争はあり得なかった。イギリスの日露戦争における役割としては、戦費の問題と情報の問題が大きい。戦費の4 割が米英からの借金でした。国債の買い取りだったのです。総額18 億円で当時3億円だった国家予算の6 年分を使ったのですが、その4 割8億円を借金で賄わざるを得ませんでした。この借金は賠償金が取れなかったため実際には返済はできず、返済のための借り換えで多重債務化したのです。1920年には16 億円になっていました。その後12 億円に整理し、第二次大戦に突入して踏み倒し宣言をします。日露戦争に端を発する返済を完了したのは1950 年代です。50 年借金が尾を引いたのです。
 8 億もの借金を持っていたことは知られていないが、1945 年時点で当時の日本の対外債務は2000 億円にふくれあがる。国家予算の10 倍です。現代と同じです。太平洋戦争末期は財政的にも戦争できないほどの状態:現在も借金まみれなところは類似した状況ではないでしょうか。
 日本人は日露戦争を知っていると思っていますが、実は実態を知らない。日露戦争について日本人が「知っている」ことはデフォルメされたもので、後で作られたイメージでしかありません。知識や価値観で変わるのです。イメージの持つ力は軽視できません。映像でのイメージは意識が固定化されるところがあります。典型的には、山梨といえば武田信玄ですが、見てもいない戦国時代の合戦が皆さんの中でもイメージできるのは、そのような映像が頻繁に作られ頭に刷り込まれたからです。日露戦争も同様です。

 ところで、なぜロシアと戦争したのかを考えてみましょう。当時ロシア脅威論はよく言われていますが、江戸時代からロシア脅威論がありますが、実際はイギリスとの関係で作られた対外進出の国策です。幕末に薩摩長州が金を動かす。それを取り持ったのが坂本龍馬でした。本来身分的には活躍できる立場にはない人が、軍事貿易にかかわって表舞台に出たのです。イギリスは、幕末に新政府中枢へ強い影響を与えて来ました。その結果「雇われ外国人」で多いのがイギリスで、対立するロシア人は一人もいない状態です。ロシア人の採用にはイギリスが反対します。ロシアの日本政府への影響を排除するためでした。
 この当時世界中で英露は対立していました。ヨーロッパではバルカン半島、西アジアでアフガニスタン、東アジアで朝鮮半島=こうみると今でも不安定な地域です。地政学的に「大陸勢力」と「海洋勢力」の接点になるところや、民族宗教対立が存在するところで大国が介入して紛争が起きやすいところです。各地点でロシアの南下をイギリスが阻止するためせめぎ合っていました。
 イギリス経由のロシア情報は「ロシア脅威」のバイアスが掛っておりで、それが刷り込まれてゆきます。情報提供元は重要です。(現在はアメリカ経由のものが多く脚色や刷り込みが行われていることに注意する必要があります。)マスコミも、新聞記者も、英語ができる人は最初の仕事は英語の翻訳から始まります。イギリスに知らず知らず影響され、対外膨張主義のイギリスの主張が入るため、明治維新直後から「ロシア脅威」思考が蔓延します。「ロシアが満州に来ると朝鮮が危ない」となる。
 しかし客観的に考えれば、当時はロシアが朝鮮半島まで一気に南下する力はない。過大評価で、イギリスの意向に沿っています。そこでロシアより朝鮮半島を先に取るという考え方が強まります。征韓論も「ロシアよりも早く朝鮮へ影響力を」という考えです。
 山形有朋らが言う主権線=国境と利益線=その外に設定した勢力圏で、これが挑戦という考え方があります。具体的に言わなくとも当時の軍人の発想に入っています。朝鮮へ行こうとしても、朝鮮に当時実際に影響があったのは清国でした。清国との「富国強兵政策」で10 年準備してかかる。国家予算の3 から4 割を軍費に:近代日本でもっとも準備された戦争と言えます。皮肉なことに中国を排除したためにロシアが手を出してきます。清が弱体化して日本がすぐに手を出すよりも前にロシア直接影響力を行使して来て、むしろ日本の影響力は後退する。その時に朝鮮の皇后暗殺事件が起こる。政権がロシアよりに動いたために起こった事件です。日露が直接朝鮮で対立しますが、ロシアは満州安定のため朝鮮にも押さえをと考え、朝鮮への急速な影響ではない。シベリア鉄道のみが兵站であるため、兵力増強が容易でないの謡でした。
 日本政府はこれを知ってはいても、ロシアの「南進」を強調しました。ただし日本単独では勝てないと考えていたので、当初は日英独3 国同盟を画策しました。しかしイギリスが拒んだため2 国同盟へ。当時イギリスは、アフリカでのボーア戦争での消耗から極東に直接介入できない。そこで日本と同盟しました。  日英同盟なしには日露戦争はあり得ません。イギリスが情報を統制できることで協力:1902 年海底ケーブルでつながる長崎上海、長崎ウラジオストックの2 本のケーブルで世界とつながります。モールス電信で伝達が世界一周することになり、ヨーロッパへ戦時情報が直ぐに伝わる状態になります。当時の情報網はイギリスが中心で、イギリスの情報から世界が戦略を組み立てる。ロシアもイギリス経由で情報を得ていました。情報はいったんロンドンに集まり再発信される形です。情報操作が容易だったのです。「日本が有利に戦争している、ロシアが苦戦している」という情報がロンドンから発信され、ロシア国内にも伝わったのです。これは非常に重要なことです。
 また、軍事力でも戦艦6 隻、巡洋艦2 隻もイギリス製、最新兵器もイギリスから買いいれられる状態で、国産より性能のいい弾丸もイギリス・ドイツ製が半分でした。金の裏付けは米英が買った国債で、金がなくなると戦争が中断する状態でした。そのため多方面に作戦を展開できない状態でした。旅順と北方同時には戦えない、それぞれが一段落して進むという、弾薬が蓄積できない薄氷を踏む戦いでした。
 一方、ロシアはロシアで連携が取れずばらばらな戦いをしていました。北方の主力も連携できていませんでした。日本は情報を重視し、日本は、戦場に電信を張りまくって軍を機動的に動かしました。しかし、物量的には銃砲弾を欠いており、突撃するロシア軍に石を投げて撃退するほど弾薬に困っていたのです。
 金銭面では、実際は米英が保証人になったようなものでした。敗戦すれば紙くずになる危険を国民に負担させたのです。一方アメリカはクーンレイブ商会というユダヤ人の商会が一括買い取りをしていました。
 日露戦争は世界で最初にリアルタイムで報道された戦争でした。「日本が圧倒的に勝っている」報道を流した後で日本国債をイギリス内で売ると、高利を付けた国債が売れる状態で完売していました。但し、満州独占は防ぐべきと考えており、イギリスは日本の勝ちすぎにも注意しています。日本海海戦が日本の勝利に終わると途端に国債買い付けをやめ、ロシアに接近し終戦をまとめる。1907 年には英露協商にまで至り、世界一対立していたはずのロシアがイギリス陣営にが取り込まれる結果に至ります。アメリカが仲介したことも有名ですが、クーンレイブ・リーマンブラザースが5000 万円の国債を一回で引き受けます(国家予算の6 分の1)。反ロシアと言う点よりも、利益の点をチェックすべきです。
 そのてこ入れをしたのは、スポンサーのハリマンです。鉄道王で、満州の鉄道を狙って、金のない日本と共同経営を考えたのです。この提案をハリマンが行ったところ、桂首相は受けるが、小村寿太郎が撤回します。いったん合意したが白紙に戻す。満州に入りたいアメリカをこの時点で排除したため、これ以後日米対立が始まったと思われます。後の日米対立の種がここにあるのです。
 日露戦争の影響ですが、@世界の3 極化から2 極化へ、A近代戦争のパターンの構築:第一次大戦の構図として、海事では大艦巨砲主義(=「主砲より副砲で人を倒す」より「船自体を沈める」怒級戦艦の誕生、イギリスが率先して建艦競争に入る)、陸戦でも防御力の強化:大宝・機関銃の防御・鉄条網など=突破力の不足で戦争が膠着化する)日本国内政治では、日露戦争直後から、韓国支配を列強に認めさせることに努めます。
 1907 年11 月に第2 次日韓協約:韓国の外交権をはく奪し保護国化することで、領土化するための1ステップです。しかし、無理矢理併合すると列強にクレームを受けると考えました。特に伊藤博文は拙速な併合案は列強が反対するため慎重論を展開しました。そこで、日露戦争の中から後に多数の国と同盟して承認を得ます。日英同盟の範囲をインドまで広げ、インドまで協力する代わりに韓国支配を認めさせる取引をします。日露講和条約でも朝鮮支配を明示します。桂タフト協定では、フィリピン支配と交換に朝鮮支配をアメリカが認める。日露協約として、ロシアとも北満、西蒙古はロシア、南満州、東蒙古は日本支配との秘密協約ができます。日仏協約でも、フランスのインドシナ支配を認める代わりに朝鮮を認めさせる。相手の支配を認めることで、日本はそちらに手を出さないから、こちらを認めてほしいという話になります。韓国併合時には、これだけ手を尽くしたので、列強に反対されずに朝鮮を領土化します。日清戦争後の3 国干渉の経験を生かしたと言えます。1930 から1940 年代の第二次大戦前に流布した、日露戦争は有色人種対白人という対立形は後日作成された大嘘で、日本はいわば白人陣営にのってアジア侵略戦争を行っていたのです。今でも尾を引いているところもあります。

 国内での反体制派への弾圧ですが、日露戦争中後に非戦論を展開した「戦争反対者に鉄槌を下す」という視点。主なものは大逆事件(幸徳秋水)〜ただし、その他の主だった社会主義者は、赤旗事件でそれ以前に逮捕されたものが多数だったので、逮捕等はされず、幸徳がターゲットになりました。ロシアと通じて日本国内での反体制化を敵視しました。
 日露戦争起点に韓国支配を実施し反戦論圧迫というのは、日露戦争・韓国併合・大逆事件となる1 体不可分の日本のあり方です。元々日本は朝鮮を狙う:第一次日韓協約〜やりたい放題(ロシアが韓国から撤退)旅順を確保し、仁川沖のロシア艦隊をたたく構想で、艦隊を滅多打ちにしてロシア公使が逃亡しロシアの韓国への影響力が消滅します。陸軍は韓国上陸して事実上の軍事支配が成立します。韓国に日本の外交顧問を置かせることを認めさせますが、これは支配の重要なポイントです。
 そして第2 次日韓協約:外交権剥奪しその外交の監督として統監として伊藤博文が韓国に赴任します。統監は、いつでも韓国「皇帝」に会えるという極めて強力な立場です。当時大韓帝国皇帝と称しますが、皇帝の名称は王様を従えているということで本当は中国のみだが、中国の下風に立たないとして無理矢理名乗りました。日本も皇帝と称しています。日本は朝鮮併合を希望していましたが、「独立国として扱う」とした日清戦争の理念と則さないことになります。領土保全・独立維持としつつ、独占してはならないとの扱いをします。併合となると独占なので、日本に反感を持つ列強が突っ込むおそれがあります。
 そこでまず保護国化し自治領にします。間接統治で、GHQと日本政府のようなものです。エジプトなどでも行われていました。伊藤の構想です。併合は段階おいて保護国で既成事実化し、その先を進めてゆくことを考えていました。しかしこれは諸刃の剣です。皇帝がナショナリズムの集結点になる危険があり、実際にそうなりました。皇帝がハーグ密使事件をおこします。列強に訴えて介入することを期待しましたが、密使は相手にされません。事前に日本が列強と取引外交を終えていました。密使は会議への出席も、代表との個別会談も拒否されました。日本は外交権を剥奪していたので、これを口実に皇帝を退位させ、子供を即位させます。しかし、新皇帝も上手く利用できず、反日抗争が強化されました。伊藤は統監を辞任します。伊藤方針が行き詰まったので1909 年閣議で併合方針を決定しました。ただ詳細はまだ決まっていませんでした。その後に伊藤は殺されるのです。
 また、1910 年アメリカは巻き返しで満州への進出を宣言します。その満州中立化構想で、日本は自国の権益が荒らされないように、韓国だけは確保しておこうということで乱暴に併合へ向かいます。安重根「東洋平和論」は獄中で作成されます。日中韓が協力することが東洋の平和の道だが、これを攪乱した罪が伊藤にあるとして射殺したものです。
 韓国では安重根は独立の英雄ですが、北朝鮮での評価は「テロリスト」として難しい。出自が反貴族層の梁蕃であることもあります。
 併合前後には義兵闘争があります。正規軍隊の解散のため、これが武装蜂起するものも多くいました。日清戦争中から電信線を張るのに非政治的な理由で切断する者を「ロシアのスパイ」名目で逮捕しては処刑することでゲリラ的な反抗が行われていました。軍隊を解散したため武器を持ったままで義兵に入り込むことになり、義兵の強化になりました。これに対し日本は「朝鮮誅殺軍」として、徹底的弾圧をしました。見せしめに殺害するなど3 光作戦の原型がここにあります。1908 年ピークで15,000 名が殺されました。1909年になると武力弾圧化に対抗して、中国の間島拠点にしてゲリラが出没します。これに対し日本軍も中国領を越境して攻撃していました。

 「坂の上の雲」はあくまで新聞連載の小説ですから、わかりやすくすることが求められています。登場人物を性格規定します。繰り返すと読者にも人物像がすり込まれます。本当にそのような言動をしたかのように思いこみます。想像して書くことは小説家である限り問題ない。史的な事実ではないことが前提です。映像化も当然その延長にある。問題は司馬本人の設定が巧みであるため、史実とフィクションの区別が明確でなくなることです。そのために「歴史上の人物」になりきって司馬が発言していることを史実であると思い込む人が出る。どう調べても資料に基づかないものも、「言ってもおかしくない」「考えてもおかしくない」ことも、文学作品であればよいが、史実ととらえることは問題です。司馬の面白いところは虚像を破壊するところだが、そこから新たな虚像が出てくる:乃木希典と児玉源太郎の例。旅順要塞攻略に正攻法(トンネル掘って地下から爆破)で時間がない(バルチック艦隊到着)ため、犠牲を覚悟で突貫。
 昭和軍人の失敗の種をまいたのは日露戦争の軍人=日露戦争の実像を伝えず、地道な情報収集の必要性などをきちんと伝えない。派手なところばかりを伝えています。勇敢に部隊を突撃させた、機関銃がなかったなどと虚偽ばかりが残っている。東条英機はじめその教科書で戦争を学んだ人が第二次大戦を指導する。秘密を秘密にしている内に秘密が内部にも伝わらない。例えば日露戦争時の参謀長であった加藤友三郎は、ワシントン軍縮条約交渉時に参加したが、軍縮提案を受けいれます。当時戦費調達はアメリカ依存で、それなのにアメリカと戦争はできるはずがないというのは当たり前です。しかし部下に話したが伝わらない。金策や情報など肝心なことが伝わらなかったのが悲劇につながります。
 日露戦争で作られた歴史をさかのぼって伝統が作られる。「日本軍は白兵戦に向いている」というのは、実は「弾がなかったためで経済的な力の計算ができていなかった」という失敗を覆い隠す技法です。
 田母神発言にあるように、軍隊としての伝統を持ちたい、という意識が、艦船の命名にも表れる。ヘリ空母に「日向」「伊勢」など帝国海軍の艦船名を踏襲している。潜水艦に「蒼龍」など懐古趣味的な命名です。「さみだれ」「さざなみ」も駆逐艦名の踏襲。
 伝統の踏襲のためには、過去の失敗は打ち消す。伝統が「創造」され、そのため成功と失敗の要因が正しく伝わっていない。失敗事例を「成功」と吹聴する。日露戦争を「成功事例」として強く持ち上げる。少数兵力での大兵力の攪乱などです。日露戦争は、日本の歴史が「ゆがみ始めた」時期です。自分たちで歴史を作りなおした時期です。過去の歴史も「日本戦史」を創作(江戸時代の講談本が原案)。これが原作になり、さらにはこれを再構成された事実を映像化されて「これが史実」と思い込む。

(質疑応答)
Q1:明治と昭和の連続性については
A1:日露戦争・太平洋戦争とは、朝鮮・満州と近代日本の膨張戦略という点では一貫しているが、明治時代に構築されており、昭和に踏襲して実現していったのです。列強との摩擦を避けるか、摩擦を避けないかの違いはあると思います。国際感覚が麻痺していたところが違うと思います。日本の近代そのものが、明治維新直後からの1 点膨張思考で、安重根の抗争と正反対の方向に進んでいました。中国や朝鮮の利益を無視して進んでゆく。 脱亜論とアジア基準論は常に対立してあったが、基本的に脱亜論が主力となっていった。

Q2:日露戦争は先生の話では勝つべくして勝った戦争のような面はあるが、自分も坂の上の雲を3 分の1 読んだが、人物表示の史実としての正確さを可能な範囲で話を聞きたい
 明治維新以降の膨張主義の流れで、明治維新から第二次大戦への流れで、どこで舵を切れたと考えるか
A2:乃木と児玉の対象ですが、事実に近いものはあるようです。乃木が崇拝された虚像を打破し、児玉を持ち上げたことをわかりやすく描いた。児玉は直後に死亡したので虚像が作りやすかったでしょう。そもそも旅順攻略は当初の構想でなく急きょ作ったものです。ロシアの旅順艦隊は日本海軍並の強さがあった。研究不足でもともとは封じ込めておけば良いという発想だったのに、バルチック艦隊との合流を恐れたのです。しかしバルチック艦隊はなかなか来ない。通常3 カ月で来るものが7 カ月かかるし、出るまでに時間がかかり、1904 年の5 月に出る話があったが、10 月に出て合流が遅れ、イギリスと組んで情報を持ちながら分析できず生かせない形で作戦が進められた。
 明石はポーランドでの攪乱などをやったとされるが、実際には影響は少なかった。ポーランド独立派への武器援助はやったが規模は小さく、その作戦をしているという情報の方が影響しました。実行行為の実効性は薄かったと思います。イギリスの攪乱情報での成果は大きかった。情報戦を組織的にやっていたことは正確に伝わらず、派手な部分のみが残されました(多少意図的に)。バルチック艦隊を低く評価する報道が流れるが、実態も7 ヶ月の旅程、新旧混合の戦隊構成など実際に問題だらけで、極めて弱体化していました。
 幸徳秋水はロバートソンの訳本で、「20 世紀の怪物帝国主義」:愛国主義と軍国主義の併存したものと分析。小英国主義の意見の保持者。膨張せずにやってゆくことを提起。一般人が「文明的」とあこがれるヨーロッパの「野蛮さ」を主張。欧米礼賛に対し反論を出す。
 根本的な膨張主義批判。人道主義的社会主義、おおらかな発想で。続編はない。政治闘争の中で思索にいたらなかったか。必ずしも日露戦争後に国民に受け入れられない。具体的に提起できなかった。

Q3:福沢諭吉についてはどう評価するか
A3:一般的な開明的態度は評価できる。脱亜論的な膨張主義批判はある。一般で自由とこの独立を主張した。これが表裏一体であったことを象徴する人物。脱亜論が強調され、実際そう考えていたのであり、福沢の評価は日本近代の実態を表している。近代化文明化を唱道し、それへの反省はない。日本近代をとらえ直すこともできる。

Q4:帝国議会の日清日露戦争への関与は
A4:議会は否定的面がある。民力休養、兵力温存を主張し、軍事費を削ったが、皇室費から軍費を出して「仲良くしろ」という詔勅を出す。議会の抵抗は弱まる。政府も天皇を持ち出す。「天皇の議会」となって、政治的な幅が狭まる。議会は一度も天皇と対立しないという特徴がある。初期議会の内は民意を代弁しようとしたが。

Q5:昭和天皇は第二次大戦で情報を遮断されたまま決断をしたのか
 70 年代以降の帝国主義戦争の流れを
A5:昭和天皇は日露戦争が大好きだった。戦艦が陸上近くをゆくことは危険とガダルカナルで戦艦2 隻砲撃を2 度やろうとしたとき、はつせ、やしまの例を出して、戦艦の比叡、霧島が沈んだ。日本軍全体が日露戦争の頭で戦っていたのは天皇も一緒。ガダルカナルのときも「旅順はもっと被害が出た」で撤退に至らない。真珠湾の時も「桶狭間と鵯越をあわせた作戦」と説明する。戦史の勉強はそれなりにやっていた。
 日露戦争の評価は、帝国主義戦争で評価は適切。形は日露の戦争で、実質は英露の帝国主義的対立によるもの。

Q6:歴史認識の手法として別の道を歩くことの可能性を現在に生かすことは議論する意味があるのか
A6:日露戦争は、イギリスとの同盟など、大国との共同、イギリス没落で独立でゆこうとしたが難しく、大国化の可能性を持ったドイツとくむ。その後大国アメリカとくむ。大国との同盟以外に道はないのか。明治以来の歴史を見ると、大国の証人を得ればよく独自の外交力を必要としなくなる。近代史で日本は外交力を蓄積してこなかった。しかし、それ以外の道はないのか。
 歴史の教訓から学んでこなかった。いくつかのオルタナティブを作ることができない。ヨーロッパでは複数の戦略を有して手を打ってゆく発想ができている。日本は一直線。それが立派なやり方という発想が染みついている。

Q7:人権交流集会をよろしく。大国依存の発想を転換したいが、そのために基地撤去・米軍との関係解消などを考えたいがどうか。
A7:軍事力は「強さ」だけ」でなく「距離」が問題。自衛隊も在日米軍も大きな流れでは縮小はしてきている。しかし、位置のために東アジアの軍縮にはつながっていない。「そこにいることが脅威」となる。軍拡の連鎖の起点になっている。自衛隊・在日米軍の存在が中国を刺激する。中国は軍拡中。日本が中国の軍拡を理由に軍縮しない。しかし、中国の軍拡はインドを刺激する。インドが軍拡するとパキスタンが、そうすると中東諸国が軍拡に進む。軍拡の連鎖を作っている。遠くにあるようであるが、軍拡の連鎖でつながっている。日本の軍事力の影響について無自覚に過ぎる。アメリカが海外に長年軍隊を展開するため、中国や北朝鮮を理由にする。アメリカが戦争をするのに中国しか金を出さない。
 金がないと戦争できないのは日露戦争と同じ。アメリカからの情報で「中国の脅威論」を振り回し、「中国の軍拡」に脅威を感じている。軍産複合体の維持に利用されている。名古屋高裁判決は重要。荷担することは日本が戦争しているのと同じと宣言していただいたことは重要。もっと活用したい。

 
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