自由法曹団 東京支部
 
 
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団支部の活動紹介

事件活動―憲法・平和

憲法をめぐる情勢と課題
―「国会改革」法案を中心に―


代々木総合法律事務所 長澤 彰

 今年5月には、改憲手続法の施行を迎える。明文改憲の動きが活発化する状況にある。与党3党は、今国会で国会法の改正を含む「国会改革」関連法案の成立を狙っている。「強権的国家」づくりを進め、さらに、衆院比例定数80削減により、少数政党の排除も狙っている。世界一危険な普天間基地の撤去問題も大詰めに来ている。

1.「国会改革」関連法案の改正の課題
 与党3党は、「国会改革」関連法案の「法律要綱」を定めた。主な内容は、(1)政府特別補佐人から、内閣法制局長官から除く、(2)政府参考人制度の廃止、(3)意見聴取会を開催する、というものである。
 <政府特別補佐人から、内閣法制局長官から除く>ことは、法案審議の場から内閣法制局長官を排除し、憲法解釈について時の内閣が自由に解釈権を有することにするというものである。「国連の決定があれば自衛隊を海外に派兵できる」「武力の行使は憲法9条と無関係である」という解釈を採用し、自衛隊を海外に派兵し、武力行使を行わせることを狙っている。
 <政府参考人制度の廃止>は、「官僚答弁の禁止」を根拠にしているが、政府参考人として法案審議に参加し答弁していた制度を廃止することで、公務員が法案審議で答弁する機会を完全に奪うことになる。行政の実態を明らかにし、法案審議を実質化するためには、公務員の参加と答弁は必要不可欠である。
 <意見聴取会の開催>は、法案審議から内閣法制局長官や公務員を排除する変わりに、「意見聴取会」を新たに設けるというものであるが、法案審議から排除しておいて、別の場で「意見を聞く」から問題ないといえるものではない。社民党の賛成を得るための制度作りといわれかねない。
 「国会改革」は、国会の権限・機能を縮小し、内閣の権限を強化することで、法案成立を容易にすることを狙い、「強権的国家」づくりをめざすものである。
 団本部では「『強権的国家』づくりをめざす民主党『国会改革』に反対する」意見書を作成した。多くの支部員に活用をお願いしたい。

2.衆院比例定数80削減の課題
 民主党は、衆議院選挙マニフェストの「ムダづかい」に、「衆院比例定数80削減」を明記した。鳩山首相は、所信表明演説でも、その必要性を表明した。「国会改革」により、国会の権限を縮小し、内閣の権限を強化することを狙っているが、さらに、衆院比例定数を削減し、少数政党を排除し、安定的な民主党政権の維持・強化を狙っている。
 衆院比例定数80削減すれば、09年8月総選挙の投票を前提とすれば、民主と自民の2大政党で、比例代表の69.1%の得票率で92%の議席を占有することになり、共産と社民の2政党は、比例代表の11.3%の得票率でわずか1.8%の議席を占有するだけになる。価値観を共通にする保守2大政党だけで国会を占拠し、消費税反対、自衛隊の海外派兵反対、米軍基地撤去実現、憲法9条改悪反対などの国民の多くの声は、国会に届かなくなる。いまから、比例定数削減の狙いを明らかにし、その策動を阻止するための運動作りが求められる。

3.普天間基地返還の課題
 普天間基地の問題では、世界一危険な基地を即時撤去すべきであるのに、鳩山内閣は、「どこに移設するか」と移転先探しに終始し、「辺野古移転も選択肢の一つ」といい、「辺野古移転反対」の稲嶺候補が勝利した結果を無視し、「ゼロベース」で5月まで結論を出すといっている。普天間基地の即時無条件撤去を実現する運動が大切である。また、安保条約50年をむかえ、安保条約の問題点について真正面から取り組む運動も必要である。

4.改憲についての課題
 今年5月には、改憲手続法の施行を迎える。自民党は、施行にあわせて、改憲キャンペーンに着手した。鳩山首相も、所信表明演説で改憲論議を始めることを明言した。今後、憲法審査会の始動などの明文改憲の動きが活発化するおそれがある。

以上


核兵器廃絶にむけた現在の争点
〜日本政府はオバマの足を引っ張っていないか〜

あかしあ法律事務所 笹本 潤

 2009年4月5日に、プラハでオバマ大統領が「核のない世界」を演説して以来、核廃絶への機運が高まっています。国連では、2009年9月にオバマ大統領の核廃絶の提案が安保理で採択され、12月には国連総会で核廃絶決議がアメリカも含めた171国で圧倒的多数で採択されました。
 今年の5月には、ニューヨークで核不拡散条約(NPT)の再検討会議が開かれます。この会議で核保有国であるアメリカが、「核のない世界」の実現に向けて本格的に動き出すかどうかが注目されます。NPT再検討会議は、5年ごとに開かれますが、ブッシュ前大統領時代の前回2005年には、核削減にむけた明確な合意を得ることができませんでした。それに比べるとオバマ大統領の姿勢には核廃絶に向けた可能性を感じることができます。

 しかし、果たして今、核廃絶へ向けて現実に動き出すような楽観的な状況なのでしょうか。現在国連にはコスタリカ・マレーシア政府提案の核兵器廃絶条約案が提出されていますが、少なくても同条約がすぐに締結されるような情勢にはありません。
 今年3月1日に報告される予定のアメリカの核態勢見直し(NPR)は、アメリカの今後の核戦略の基本政策についての報告書です。このNPRが、核廃絶・核削減に向けてどの程度踏み込んだ政策をとるかが、NPT再検討会議の結果を大きく左右するでしょう。
 ところが、この報告書の作成が当初の予定から遅れて3月1日になりました。その原因については「オバマ政権内で、核の先制不使用の是非や核弾頭の削減数をめぐって意見が対立しているとの見方もある。」と報じられています(2010年1月6日朝日)。このとおりだとしたら由々しき事態です。
 「先制不使用の是非」は、核抑止力や使用を前提にした議論であり、本来は到底受け入れられないのですが、現実の政治力学としては、核抑止力を前提にして核兵器使用の場面を限定したり、核兵器の役割を限定するとい形での核軍縮を追求するのが精一杯ということなのでしょう。米国防省や共和党保守派議員などの動きが、オバマ大統領の核軍縮の方向に対して足を引っ張る役割を果たしていると言われています。
 そもそもオバマ大統領の核廃絶演説に至った要因の一つは、2007年1月に冷戦時代を支えてきたキッシンジャー元国務長官ら4氏が、核廃絶を訴えたことにあります。これは主にテロリストによる核攻撃に対しては、核抑止力は効果を発揮しないので核を廃絶するしかないという訴えでした。しかし、一方で、2010年1月には、同じ4氏がアメリカの核抑止力の能力の維持が重要であるという、核抑止力の維持を逆に強調する論文を出しています。
 このようにアメリカでの議論は、真に核廃絶を目指すというよりも、テロリストの核攻撃を恐れるという消極的な動機が主流だったために、なかなか「核の先制不使用」「核軍縮」そして「核廃絶」の方向に進んでいないのが実際です。

 日本政府の態度はどうでしょうか。
 昨年は国連総会に核廃絶決議を提出しています。しかしこれは拘束力のない政治的な決議ですし、また日本政府が核兵器禁止条約にすぐに署名するような状況でもありません。
 岡田外務大臣は就任時には核の先制不使用を主張していましたが、現在の政府の方針はまだ不透明です。
 鳩山首相の質問趣意書に対する答弁(2009年11月10日)では、「核兵器の先制不使用宣言を追求していくことは道義的に正しい方向であると考えるが、・・・すべての核兵器国が検証可能な形で同時に行われなければ有意義ではなく、これを達成するには、まだ時間を要するものと考えている。」と核の先制不使用宣言には否定的です。
 また、核兵器の役割を核兵器保有国に対する抑止に限定する、という消極的安全保障の考え方については、「非核兵器国に対して核を使用しないという考え方は基本的に支持しうるものと考えている。その際、・・・我が国の安全保障及び国際的な安全保障を損なうことはあってはならないと考えている。」と核抑止力に引き続き依存する態度です。
 また、昨年には「日本政府当局者が自公政権下で、核軍縮に伴って核の傘の信頼性が低下しかねないとの懸念」をアメリカ側に伝えた、との報道(2009年11月6日朝日)がなされ(岡田外相はこれを否定していますが)、日本の政府関係者が「核の傘」による庇護をアメリカに求める動きもあったようです。
 これらの動きを見ると、日本政府の動向が、オバマ大統領の核廃絶の方向性に対してブレーキの役割を果たしているのが実情です。

 このような核廃絶をめぐる情勢のもとで、核被爆国である日本の私たちは今何をすべきでしょうか。
 現在核廃絶を求める署名が、原水協など市民団体によって集められ、ニューヨークのNPT再検討会議へ提出される予定です。「核抑止力」への依存を方向転換させるには、核廃絶の国際的世論をいかに大きくするかにかかっています。
 また、日本政府を、被爆国として「核の傘」から脱し、「核抑止力」に依存させないためにも、日本政府に対する要請活動が重要になってきます。核密約問題で表れた非核3原則の空洞化の問題に対しては、非核3原則の法制化を求めるなどの運動も強化する必要があります。これは日本が核を持ち込ませないという意思表明ですから、核抑止力に頼らないことの表明へのワンステップともなるのではないでしょうか。
 反核法律家協会、青法協、自由法曹団など法律家5団体で、ニューヨークのNPT再検討会議に行くための法律家代表団を結成しました。ニューヨークに向けて、1人でも多くの法律家が参加していただくようお願いします。

以上

 
 

改憲手続法、憲法審査会

代々木総合法律事務所 大普@潤一

 改憲手続法の施行期日が今年5月とされている。
 団は改憲手続法の問題点を指摘し、その廃止・凍結を求めているが、問題点の指摘が改憲手続法の改正と結びつけられると憲法審査会の始動につながるおそれがある。憲法審査会は「国民投票に関する法律案等」を審査の対象としている(国会法102条の6)からである。
 ならば端的に憲法審査会の廃止を検討してはどうだろうか。廃止がただちに可能というのではないが、憲法審査会は国会法に規定されており、国会法改正であれば憲法審査会も始動すまい(憲法審査会でその廃止を審議するのもおもしろいであろうが。もちろん、審査会廃止の国会法改正が国会改革の呼び水にされてはいけない)。
 憲法審査会について団は「改憲手続法 国会審議録検討集(論点整理)」を発表している。この意見書38ページ以下ではすでに3年前から重大な指摘がされていた。この意見書はイタリア視察の成果も盛られている。意見書が指摘した問題は附帯決議に集約されている(附帯決議の内容は上記意見書39ページに記載されている)。附帯決議が示す審査会の問題点は改憲派とも共通の認識となっている。憲法審査会を廃止すべきなのは、単に審査会が改憲のためというだけでなく改憲派も認識している問題点の抜本解決のためでもある。
 さらに憲法審査会には憲法上の問題もある。日弁連、二弁の意見書は、常設機関であること、両院協議会を定めていること、合同審査会を定めていることを挙げている。
 なお、これら以外に憲法審査会の問題を気の付いた範囲で書いておく。
 憲法改正原案は当然に後会継続となり(国会法102条の9第2項)、通常の法律案のように国会閉会で廃案ということがない。
 国会法検討では第11章の3の国民投票広報協議会も対象とすべきであろう。
 憲法審査会の審議の対象は「国民投票に関する法律案等」と規定され、「等」の文言が入っている。「等」の範囲によってはさまざまな問題の可能性があろう。
 このような憲法審査会は廃止すべきなのである。

以上

 
 

安保条約50年にあたっての雑感

東京本郷合同法律事務所  内藤 功

 安保条約の学習会で、まず、1945年7月のポツダム宣言、広島長崎への原爆投下、天皇の地位の確認についてのやりとり、8月14日の宣言受諾、という歴史から入ることが多いのだが、沖縄の話を必ずするようにしている。
 言うまでもないことだが、1945年3月26日、米軍が慶良間列島を攻撃し、沖縄本島への前進拠点として同島を占領し、4月1日、沖縄本島中西部海岸(嘉手納・北谷方面)に上陸、侵攻、占領し、最高指揮官ニミツツ元帥の名で、海軍軍政府布告第1号を発して、沖縄(琉球諸島、大東諸島)を日本から分離し米軍政下においた。次いで、6代に及ぶ高等弁務官(国防省任命の現役米陸軍中将)による民政府の統治下におかれた。少なくともこの時点からの、苛酷な戦闘、横暴な占領と土地強奪、基地拡張の歴史から語るようにしている。あたかも本報告執筆作業中の1月21日、衆院予算委員会で、赤嶺政賢議員が、普天間問題を中心に鳩山由紀夫総理に迫った質疑は、非常に参考になり、力づけられるものであった(論戦の全貌は「赤旗」1月24日付け5−6面に掲載)

■「安保50年」という言葉の響きには、奥深く、またどこまでも広がるような余韻がある。1959年の砂川の米軍駐留違憲判決、59年から60年の安保反対の大闘争から、もう50年もたったのか。時折、つい昨日のような気がするのも不思議だ。思い返すと、50年前は、私はまだ、若手弁護士だったが、労働組合の職場支部や地域の政党支部の学習会に呼ばれて、安保条約の話をしてまわっていた。賃金や「企業合理化」の話は労働者にうけるのだが、「安保はどうも難しくて」というのが、組合活動家の悩みだった。そこで、話の材料の中心として、ちょうど59年3月30日に東京地裁が出した、砂川事件の米軍駐留違憲判決をカバンに入れて大いに解説して話していた。この判決は「安保条約に基づく駐留米軍は、日本と直接関係のない戦争に使用される軍隊だ、日本が他国の紛争に巻き込まれる恐れがある。それは前文にいう『政府の行為により戦争の惨禍が起こることのないように』という憲法の精神に反する。」との正論を堂々と展開したものであった。労働者に法律的にも正しいんだという確信を与える効果は大きかった。米軍の危険な作戦行動を証拠立てるような情報や資料は、あまり世の中に出回っていなかったが、それでも、当時の「赤旗」のほかに、雑誌「世界」がよく読まれていて、毎号安保問題に関する批判的姿勢の特集をしていた。私が反復熟読して引用したのは、たとえば、「台湾海峡の緊迫と日本」特集(58年11月号)とか「日米安保条約改定問題」特集(59年4月号)とかの論文、時評であった。1953年から1958年にかけて、しばしば、台湾海峡において発生した、武力衝突という内戦の緊張事態に際し、米軍は介入を試み、核装備の第7艦隊、第5空軍、海兵隊航空部隊が沖縄と本土の基地から、台湾海域・空域に出動し展開しているという情報を把握することができた。東京地裁の伊達判決の判断の基礎をなす米軍についての分析は、当時の情勢に照らして正確であったといえる。伊達判決からすでに51年になるが、今でも基本的には、この判決の示した駐留米軍の行動に対する認識は正確で新鮮である。
 私自身は、それ以降50年実にいろいろな機会に、同じ筋道で安保を語ってきたのだと思う。50年立ったという気がしないというのはそういう事情によるのかもしれない。もちろん、今、安保を語るときに用いる米軍自衛隊の作戦行動の資料は、当時とは違う全く新しいものが多いのだが、米軍駐留違憲論の骨格は、50年前の東京地裁の判決文そのものが基本資料だ。違憲判決の生命力は今も光り輝いて、すごいなと感じる。しかし、正確に言えば、言うまでもなく、伊達判決の生命力とは、すなわち、憲法第9条の光り輝く生命力のすごさなのである。

■憲法第9条、及びそれと不可分一体をなす憲法の原点に立てば、日米安保条約・軍事同盟、そしてそれを補強するもろもろの日米合意あるいは「密約」などが憲法違反だということは当然の道理だ。たとえば、1946年8月26日、憲法制定議会の貴族院の第1読会で、高柳賢三議員が「この憲法の条約によって、いわゆる攻守同盟、または侵略者にたいする共同制裁を目的とする国際条約を締結することは憲法違反になると思うが」と質問した。これに対して、憲法担当大臣の金森徳次郎国務大臣は「第9条に違反するようなかたちにおける条約でありますれば、もとより憲法違反になると存じます」と答弁している。米軍駐留を憲法第9条に真っ向から違憲と断ずることは、今の司法の雰囲気の中では、多くの裁判官は躊躇することが多いといわれる。もっとも、50年前の、伊達判決当時でも、地裁段階での違憲判決は結構出ていたとはいえ、米軍については、かなり勇気のいる仕事であったろう。けれども当時は、戦後15年で、戦火の廃墟が残っており労働運動、平和運動の担い手の人たちは戦地、内地での戦争体験と戦争の惨禍を身を以て味わった人たちだった。憲法・法律学界でも、米軍駐留を違憲と正面から断ずることは、今よりは、自然であった。たとえば故・鈴木安蔵教授(憲法学者・1945年日本憲法民間試案の起草者・映画「日本の青空」の主役として登場)の諸論文は、伊達判決と骨格を全く同じくする。
 1959年3月30日の東京地裁の伊達判決に先立って、1954年9月、福岡県板付米空軍基地拡張のための土地強制使用を争う訴訟が起こされた。板付基地は、朝鮮戦争での米空軍の日本本土における最前線の航空基地、朝鮮半島の戦場への出撃拠点であった。同年2月、米空軍の航空機燃料貯蔵庫の用地取得のため、近隣の民有地に対する買収が行なわれた。土地所有者のうち、松本治一郎氏ら3名は拒否した。これに対して、安保条約・行政協定に基づく土地使用のための特別措置法に基づいて強制使用認定処分がなされた。
 松本氏らは、基地反対闘争の一環として、安保条約・行政協定と、強制使用認定処分は憲法9条に違反すると主張して、内閣総理大臣を被告とし、東京地裁に提訴して法廷闘争を闘った。新井章団員、渡辺良夫団員などが弁護団の理論構築の中心であった。原告松本治一郎氏は衆院議長を務めた政治家であった。当時の秘書が楢崎弥之助氏(後に衆院議員)であったと記憶する。
 10数回の審理の後、約3年後、1957年11月、政府は、自ら使用認定処分を取り消し、住民側が勝利した。この裁判の過程で、1957年10月、安保条約違憲論の原告側鑑定書が鈴木安蔵氏によって執筆提出された。この鑑定書の論旨を基に、鈴木安蔵氏がまとめた論文が「米軍の駐留は憲法に違反するか」である(鈴木安蔵著「憲法と条約と駐留軍」102頁所収。第4章)。この論文は、その後の砂川基地の行政訴訟、民事訴訟、大高根基地の裁判闘争などで有力な理論上の武器となった。鈴木論文は今読んでも現在の基地問題に対処する上でピッタリの内容を含み、共感するものがある。そして、砂川事件違憲判決とも骨格を同じくするものであると思う。

■とりわけ、今の基地問題、日米同盟問題を見る場合に重要だと思うのは、次の箇所である。
 「日本国は、米国軍隊の戦争ないし武力行使にたいして『共同措置』(筆者註・旧日米行政協定24条。現安保条約5条の『共同対処』に相当)をとり、これに協力する義務を負うているのであるが、この場合日本国にたいして武力攻撃を加えた、もしくはまさに加えようとしていると判断される国に対して、米国が宣戦を布告し、または戦闘状態に入った場合、日本もまた同時に、この戦争、武力行使に参加することとなる。そして、この戦争、武力行使は、事の牲質上、相手国と米国ならびに日本国との国際紛争を解決する手段として行なわれるものとなることは明白である。憲法の禁止しているところの国家行為をなすことが明白で必然であるというごとき内容の条約はとうてい合憲的な条約となすことはできない。そもそもかかる事態の発生を、その目的とし使命とする軍隊が、日本国土ならびにその付近に駐留することは、憲法第9条の規定を無にすることにほかならない。」(前掲書118−119頁)
 「長期にわたって、しかも全国土に外国軍隊を駐留せしめるというごとき場合、日本国憲法が軍隊その他の戦力について定めていることを根拠として推論判断することは当然でなければならぬ。」(前掲書119頁)
 「米軍の駐留は日本国自身が希望し承認したものである。基地その他の便宜供与は日本国がなしている。米軍が軍隊として存在し機能を発揮するための必要な諸条件は、すべて日本国の国家意思としての国家作用によって存在している。日本国の国権によって米軍の秘密保持にあたり、米軍の基地のために土地使用ないし収用をなし、それらに要する費用を日本国の予算において分担している。米軍は日本国の国家作用によって存在を可能とされている。このような米軍は日本国憲法の規制を免れることはできない。そうでなければ日本国の最高法規たりえないであろう。」(前掲書120頁)
 さすが、民間憲法試案の起草者の気迫の漲った筆致である。

■普天間問題に見る、政府の「混迷」の根因は、一つは、米側に恫喝されると動揺し、これをはねかえすことができないことだ。しかし、他方では、09年11月8日の宜野湾市の県民大集会で示された、沖縄県民の意思、「普天間即時閉鎖撤去・辺野古沿岸部新鋭基地設置反対、県内移設反対」の明確な意思を全く無視することもできない。今後の選挙の結果をもうかがいながら、決断時期の延引を繰り返しているようにも見える。 延引そのものを悪いとは、あえてここでは、申すまい。問題は確固たる展望と確信をもっての延引か? それとも、展望も定見もなしの時間稼ぎか? ということなのだ。
 展望と確信をもって、主権国家の政権が、普天間問題、米軍兵力再編問題、基地問題について、米政権に向き合う姿勢の基本は二つある。まず第1には、沖縄県民の、平和の心情と意思を、心底理解し、住民とともに立ち向かう姿勢が必要だ。基地反対の沖縄県民の世論を本当に背後に味方につけることが基本だ。
 もうひとつは、平和憲法を擁し、その憲法尊重擁護義務を負う政治家として、憲法第9条を根拠に堂々と物を言う気迫が必要だ。米軍基地存続や新基地設置の道理(「抑止力」論など)は説得力を失ってきている。日米安保条約、米軍駐留、軍事同盟は許されないという憲法論をしっかりハラの底に納めて、最後の守り刀として、行動することが今の日本の政権としては最も強力かつ安全な方向なのだ。
 だが、ハラの底には改憲論をひそめていながら、今は政治とカネの問題で、特捜部の吟味にさらされているという、現在の小澤一郎幹事長・鳩山由紀夫総理の政権に対して、この対米姿勢を望むのは、あるいは「無い物ねだり」かもしれない。しかし、いやしくも政権を継続し、外交を担当し、参院選挙で信を問わんとする以上は、上記の基本姿勢にしっかり立つことを要求したい。

■繰り返して言うが、海兵隊が日本を守る「抑止力」だという論は、沖縄県民に苦痛と犠牲を強いる道理としては、全く虚構なものだというほかない。
 現政権は、「米海兵隊は抑止力だ。必要だ」と呪文のように繰り返す。もはや呪縛にかかったような心理状態にみえる。しかし、こういうときこそ、言葉の魔術に乗らず、よく落ち着いて、米海兵隊と米海軍の実態を認識して対処すべきだろう。現在の米海兵隊も(具体的には、沖縄駐留の米第3海兵遠征軍)、海兵隊と一体の(海兵隊の乗り組む)米海軍も、相手国に侵攻し、相手を圧倒し屈伏させるに至る程強力な軍事力にほかならない。これは動かしがたい事実なのだ。それは「遠征軍」である。「侵略力」だといってよい。任務、装備、編成、訓練演習の実態からみて「日本防衛の部隊」でもないし、「基地防御の部隊」でもない。
 米海軍に詳しい軍事研究者の河津幸英氏の「図説アメリカ海軍の超戦闘艦・有事作戦」(08年・アリアドネ社発行)をみてみよう。同氏は、次のように指摘する。
 「米海軍は対テロ戦争さまざまな規模地域での国際紛争に対処するため、02年公表の『シーパワー21』という将来方針に沿って、海軍・海兵隊の遠征戦力としての再編整備を進めている。この構想は、まず、陸地から100カイリの洋上に移動可能な艦隊による海上基地を構築する。その海上基地から、海兵隊が敵対国領土へ侵攻する、というものだ。現在米海軍が頻繁に実施している洋上演習は、この構想に基づく運用を訓練試験するための演習が多い。太平洋艦隊では、08年3月、東シナ海で・原子力空母ニミツツ中心の空母攻撃群と、強襲揚陸艦エセックス中心の遠征打撃群が、対テロ戦争対処、有事即応に備える遠征打撃群演習を実施した。強襲揚陸艦から海兵隊を機動展開し、航空作戦、空作戦、水上支援作戦、揚陸作戦など多彩な調練を行なった」(前掲書2−3頁参照)。
 こんな危険な「侵略力」を日本の安全を守るという意味での「抑止力」だと思い込まされている「呪縛」は早く払い除けて目をさましてほしい。

■憲法違反の日米合意は、それを締結した当の自民党政権は別として、合意成立まで情報の外におかれ、相談も説明も協議もうけず、合意の結果だけをおしつけられる立場の主権者国民・県民・住民を全く拘束しない。拘束できる道理がない。国民・県民は、主権者・主人公として、日米合意の変更を求める力と権利をもっている。安保条約10条で安保条約自体をも合法的に廃棄できるのだから、国会の審理・承認手続きも経ていない日米再編合意を変更・解消できるのは当たり前だ。日米合意の変更・解消を、外交交渉の議題にできるのは、独立国の政府なら当たり前だ。
 これからの50年は、アメリカとの外交交渉を本腰を据えて、どのように成功させるかをみんなで知恵を絞っていかなくてはならない。アメリカを動かす道理はなにか?
 ところで、アメリカのイギリスからの独立を推進した「歴史的パンフレット」とされるのが、1776年のトーマス・ペインの「コモン・センス」だ(小松春雄訳・岩波文庫)。
 なぜ、このパンフが、独立革命のとき人々を励ましたのか? 熟読してみたい。
 以下引用の中で、トーマス・ペインが「イギリス」と言っているのを「アメリカ」と読み替えてみる。「イギリス」とあるのを「日本」と読み替える。「ヨーロッパ」とあるのを「中東・アフリカ」と読み替えてみたらどうか。今の日米同盟にピッタリなところがある。
 「いささかでも、イギリスに従属したり、依存したりしていると、アメリカ(大陸)はただちにヨーロッパの戦争や紛争に巻き込まれる」
 「本来われわれに友好を求めている国民と、またわれわれが怒りも不満も抱いていない国民と不和になる」
 「どの国とも偏った関係を結ぶべきではない」
 「中立が戦艦よりも安全な護衛艦になる」
 「正義や道理にかなったものすべてが、分離を主張している」
 「殺された者の血が、自然の『泣き声』が『今こそ分離すべき時だ』と叫んでいる」
 まるで今のわれわれ日本人を励ましてくれているようだが、鳩山由紀夫総理が米大統領と話す機会があったら、今の日本人は、234年前の貴国の独立革命のときと同じだと、訴えてみたらどうか。先方からどういう答えが返ってくるか。
 安保闘争50年。普天間、名護が突破口になって、沖縄・本土一体の闘いで、安保の厚い壁を崩す時代が幕開けする予感がある。これからの50年は「安保をなくす50年」としたいものだ。(10・1・24記)

以上


普天間基地の無条件即時返還要求の声を

東京南部法律事務所  宮川 泰彦

〈そもそも普天間基地は存在が許されない違法基地〉
○ 国際法違反の生い立ち
  普天間基地は、本島に上陸した米軍が、戦禍を逃れる村民が本島北部に避難・疎開して不在の間に(疎開せず残っていた村民は収容所に囲い込み)役場、郵便局、民家、墓地などを押しつぶして、日本本土攻撃の基地としてつくったものである。普天間基地は誕生の時から住民が暮らす土地のど真ん中にある。
 この有無を言わせぬ土地の収用はハーグ条約(1899年、ハーグ陸戦条約)第3款(敵国の領土における軍の権力)の第46条「私有財産は、之を没収することを得ず」、同第47条「掠奪は、之を厳禁す」に違反していることは明白である。普天間基地は国際法を蹂躙して誕生した。  旧日本軍の基地を引き継いだ本土の米軍基地とは異なり、沖縄では住民の土地を奪って米軍基地がつくられたのである。普天間基地面積の91%は奪われた民有地である。
 このような国際法に違反して誕生した基地が65年も存続することは許されない。

○ 米国の法律に違反する違法な基地
 米国連邦航空法は飛行場の「クリアーゾーンでの全ての障害物を除去する」と定める。連邦規制基準は、「航空可能空域に影響を及ぼす物」としてクリアーゾーン内には、建築物の構築が一切禁じている。そして、「その禁止は軍事飛行場にも適用され、軍事飛行場とはアメリカ軍隊が運用するいかなる軍事をも指す」として、沖縄の軍事飛行場にも適用される。普天間飛行場のクリアーゾーンは滑走路を中心として幅450〜609メートル、滑走路の端から900メートルとのことである。米軍は70年代以降、普天間基地の機能を目一杯拡張し、クリアゾーンが基地周辺に大きくはみ出してきた。その結果、普天間基地のクリアーゾーン内には小学校、保育所、病院など18施設、住人3600人が存する。
 普天間基地は米国連邦法に違反し、存在を許されないが沖縄では存在している。宜野湾市伊波市長は、普天間基地撤去訴訟をアメリカでできないものかと語っている。
 国際法に照らしても、アメリカ法に照らしても普天間基地の存続は違法を重ねるもの。我々法律家はこの点ついて研究し、おおいに意見を述べるべきではないだろうか。仮にこのような基地が戦後65年も東京周辺に存在する場合は、大きな非難を浴び、大きな撤去運動が起きているだろう。

〈基地被害と主権の侵害〉
 基地あるが故に沖縄県民は犠牲を負ってきた。宮ノ森小学校へのジェット機墜落事件、海兵隊による少女暴行事件はじめ婦女暴行事件、米兵(とりわけ海兵隊員)による住居侵入・窃盗・傷害などの犯罪、嘉手納をはじめとする爆音被害等々である。そして米軍犯罪者に対する治外法権かと思われるような扱いがなされている。普天間基地では、ヘリやジェット機からの落下物事故なども起きている。そして、2004年8月には沖縄国際大学にヘリが墜落した。米軍は、直ちに境界フェンスを乗り越えて沖縄国際大学に入り込み、大学敷地内の現場と近所の道路を支配した。大学の自治も公共道路に対する県警の管理も米軍の前では無力だった。一体、これが独立国家だろうか。

〈普天間基地に対する沖縄県民の意思は明確〉
 97年12月辺野古のある名護市民投票で新基地反対が明確に示された。しかし、06年5月の日米安全保障協議会(2+2)を経て、09年2月にグアム移転協定締結されたが辺野古の新基地建設が条件となった。しかし、2009年衆議院選挙において沖縄県内への基地移転・新基地を容認する候補者全員が落選した。そして、貧しいが故に基地関連に頼っての生活を余儀なくされている住民も少なくない中で、この1月に基地反対を正面から掲げる名護市長が誕生した。
 普天間基地の代替基地不要、無条件撤去は沖縄県民の声であることは明らかであり、沖縄ではその声を挙げている。
 東京の多くの人々も同じ意見だと思われる。ただ、この意見は声になっては聞こえてこない(あるいはまだ大きな声には聞こえない)。

〈即時無条件返還の決議、その執行等を〉
 普天間基地はじめ沖縄の基地問題は、沖縄県民だけの問題ではない。違法な基地が日本国内にあり続けてよいのか、主権者やそこに住んでいる県民の意思より日米安保の方が重要なのか、新政権誕生で米軍基地が撤退した例はスペイン、エクアドルなどにあるではないか、日本防衛のために必要というが米軍海兵隊の実態は日本防衛とは無縁な存在ではないか、代替施設移転条件は基地撤去を阻害するものでしかない、アメリカは何故辺野古への新基地にこだわるのか、等々ついて意見を交わし、「普天間基地の無条件即時復帰」決議をあげ、日本政府とアメリカ大使館にその決議を届けることを提案したい。また、各団員、各事務所で普天間基地の返還に関する討議をし、討議の結果を団員・事務所の関係者に伝えるなどの行動を起こそうではないか。

以上


韓国「併合」100周年によせて

都民中央法律事務所 松井 繁明

 今年2010年は、さまざまな意味で重要な年である日米関係では、新安保条約締結50周年にあたり、日米軍事同盟のあり方が問われなければならない。これにくらべて余り広く知られていないが、日朝関係では、日本が朝鮮を植民地化した「韓国併合」100周年の年である。日本の植民地支配にする朝鮮民衆の3.1蜂起の91周年でもある。
 「併合」とは、広辞苑によれば「いくつかのものをあわせて一つにすること」。用例として「併合罪」があげられている。ごく通常の用語である。
 しかし、韓国「併合」の実態は、日本が軍事力によって独立国である朝鮮国の主権を奪い、植民地にしたことにほかならない。その実態を覆い隠すために「併合」という通常用語がつかわれているにすぎない。
朝鮮半島の支配権をめぐって戦われた日露戦争が日本の勝利に終わって(1905年)わずか5年、朝鮮国の王宮を、砲兵隊をふくむ日本軍が包囲するもとで、閣僚を脅迫し「調印」させたのが韓国「併合」条約だったのである。
 ここにいたるまでの経過でも日清戦争の宣戦布告前に王宮を占拠して王を虜にする(1894年)、日清講和条約調停後に王妃閔妃(みんぴ)を殺害して井戸に投げ捨てる(1895年)など、当時の日本のおぞましさには限りがない。
 しかしこれらにたいし、韓国「併合」条約は合意にもとづく合法的なものだとか、日本軍は朝鮮の「独立」のために日清戦争を戦ったとか、植民地下の朝鮮人は幸福だったとか、妄言・妄説がいまも絶えない。元航空幕僚長や右翼言論人の所説がそれである。
 これらの言論の最大の特徴は、歴史的に存在した都合の悪い事実をすべて隠し、そのことにはふれない虚構のうえに議論を組み立てるところにある。だからこそ彼らは平然として大言壮語ができるのだが、じつはそこに彼らの最大の弱点がある。真実は強く、虚構は弱いのである。
 韓国「併合」条約が「締結」された20世紀初頭は、列強諸国が地球上ほとんどの地域を植民地にしていた時代である。そのため日本の朝鮮植民地化に対しても、イギリスはインドの権益を、アメリカはフイリピンの権益をそれぞれ守るため、これを黙認した。だからといって、ピストルを突きつけて調印させた契約が有効でないように、韓国「併合」条約が有効となるものではない。
 日本が朝鮮の独立をのぞんだ、などということは、日本が朝鮮で展開した一連の行動をみれば、あきらかな虚偽である。
 朝鮮の青年らは、支配者である日本のために戦わされ、死に、傷ついた。どこに朝鮮人の「幸福」などがあるのだろうか。
 朝鮮をめぐる今日の状況を放置することはできない。私たちはこれと戦わなければならない。
 そのためには第一に、私たち自身が歴史の真実を知らなければならない。知ったことをおおくの人々に広げなければならない。
 第二に、私たちは歴史を学ぶにあたって、「足を踏まれた人の想い」にたいして、豊かな感受性をもってあたるべきだろう。
 第三に、今日の言論状況はまことに嘆かわしいが、私たちがねばりづよく闘えば、状況を必ず転換できることに、確信をもつべきだろう。「真実は強く、虚構は弱い」からである。

以上


憲法ミュージカル
「ムツゴロウ・ラプソディ」大成功!

三多摩法律事務所 小林 善亮

1 ムツゴロウ・ラプソディ
 今から5年ほど前、国会に国民投票法案・改訂教育基本法案が上程され改憲の動きがかつて無いほど高まっていた。東京・三多摩地域の登録して2,3年目の若手弁護士たちは、集会や学習会に自分たちと同じ子育て世代が来てくれないことに危機感を募らせていた。数え切れないほどの対策会議(飲み会)を経て出た結論が、「憲法をテーマにした市民ミュージカルをやろう」というものだった。憲法を頭で考えるきっかけとして、まずこころでその理念を感じてもらいたいという思いからだった。07年5月は、沖縄戦をテーマにした「キジムナー」、08年5月はいわゆる「慰安婦」問題を取り上げた「ロラ・マシン物語」を多摩地域各地で公演し、それぞれ6000人以上の観客を動員して大成功に終わった。 3回目の取り組みとなる2009年作品は、「ムツゴロウ・ラプソディ」と題し、諫早湾干拓事業を取り上げた。1997年の「ギロチン水門」の閉めきりや、有明海のノリの色落ちで全国的にも有名となったこの公共事業。無駄な公共事業と批判されながらも工事が止まらないことにより、何がもたらされたのか。日本有数の干潟、生物の宝庫であった環境の破壊だけではなく、そこで生活する人の経済基盤が破壊され、「賛成派」「反対派」に住民が分断され地域社会が破壊されていく(むしろ、補償金や補助金をちらつかせた行政によって分断されたと言うべきであろう)。そして工事にかかる莫大なお金はゼネコンへと流れていく。「公共」の名の下に行われる国の事業によって人権が破壊されていく様を、ムツゴロウや渡り鳥、貝などの動植物や、有明海の漁民の視点から描くことにより、憲法の個人の尊厳や公共の福祉の理念や、国民主権の理念について考えさせるミュージカルとなった。

2 憲法を体現する制作過程と各地での取り組み
 出演するのは、過去2回と同様、一般公募で集まった5歳から79歳までの市民90名である。この偶然集まった市民が150時間以上の稽古を重ねるなかで、歌やダンスのうまい人だけでなく、誰もが出演者として不可欠な存在であることに気が付き、お互いの人格を尊重する仲間になっていく。毎年のことであるが、この出演者の一人ひとりが大切にされなければ作品が成立しないという、このミュージカルの創られ方そのものが「憲法的」であると実感できる。
 テーマを理解するための学習会や、地域の市民と協力してのプレ企画や宣伝行動を行い、実行委員を少しずつ獲得して行った。今年は特に、映画監督の山田洋次さんをお呼びして「寅さんと憲法」と題したプレ企画を行った。山田さんは、旧満州で育った自分の経験から、戦時中いかに日本人が中国人や朝鮮人を差別したか体感したことなどを語られ、この企画に対し、「この取り組みの成功がこの国の希望につながる」と応援メッセージをくれた。
 しかし、チケット販売は伸び悩んだ。各会場、公演1週間前でまだ半分程度のチケットしか売れていない状況に、一時は「絶望的」と漏らす人もいた。しかし、最終版で、昭島、多摩、飯能、武蔵野、立川と続いていく公演を一つひとつ成功させるべく、出演者も実行委員も一緒になって取り組むことにより、結果的に6,380名の観客を迎え大成功を納めることが出来た(内訳は昭島市民会館940名、パルテノン多摩1040名、飯能市民会館1000名、武蔵野市民文化会館1100名、立川市民会館昼公演1400名、同夜公演900名である)。会場には多くの若者や子ども連れがつめかけ、アンケートでも、「報道だけでは知ることの出来ないことを考えることが出来た。」「住民の生活を守るのが国の仕事なのに、国っていったい何なんだと思った。」などの回答が寄せられ、このミュージカルのメッセージも伝わったように思う。

3 最後に
 憲法ミュージカルは当初期待を超え、多くの財産をもたらしてきた。3年で1万8000名を超える観客、毎年300人を超える実行委員・サポーターの取り組み、そして偶然集った市民による舞台の完成度の高さは、地域に市民の力を再確認させることとなった。これは、憲法ミュージカルという企画でなければ生まれなかった財産である。
 今後、憲法ミュージカルは、この財産を活かし、地域の憲法の取り組みを発信し、地域の憲法運動を盛り上げていこうと考えている。そして、この地道な取り組みの中から、また新たな仲間がつどい、また新たな憲法ミュージカルが生まれていくと信じている。

以上


九条の会東京連絡会の活動

旬報法律事務所 島田 修一

1 発足後の活動
08年10月24日、700名が参加し、東京にある800余の九条の会が対等平等の関係でつながりあう情報共有・交流・協力のためのネットワークとして発足した東京連絡会の09年の活動は以下のとおりです。

2月05日 ニュース発行(隔月発行で10年2月まで第7号、毎回1500部)
2月09日 第1回交流会「ニュース発行のノウハウ」、地域9条の会から42名参加。
2月23日 第2回交流会「今年の総選挙に向けて」(37名)
ミニ講演「ソマリア派兵」(島田)
3月16日 第3回交流会「若い世代に広げる」(36名)
4月13日 講演会「激動の中の憲法」(渡辺治氏)200名
5月18日 第4回交流会「地域に広げる」(39名)
6月15日 懇談会「1周年記念の企画をどうするか」「来年の国民投票法施行へ向けた取り組みをどう強めていくか」。9条をめぐる綱引きの新しい段階にふさわしく、九条の会の運動の力をさらに強く大きなものにしていく企画を考える必要があるとして、実行委員会形式で準備していくことを確認。(31名)
7月13日 第1回実行委員会(24名)
7月27日 第5回交流会「小学校区単位に九条の会をつくる」(44名)
特別講演「ソマリア沖で自衛隊は何をしているか」(半田滋氏)
8月10日 第2回実行委員会(25名)
9月08日 第3回実行委員会(55名)。1周年のつどいを2つ開くことを決定。
特別講演「憲法9条をめぐる国会の新情勢」(高田健氏)
9月28日 第4回実行委員会(55名)
特別講演「核兵器と憲法9条」(野口邦和氏)
10月24日 発足1周年のつどい1(日本教育会館) 200名
講演「生きいき憲法―98歳からのメッセージ」(日野原重明氏)、詩朗読(日色ともゑ氏)
報告「9条をめぐる情勢と運動」(都丸哲也氏)
10月26日 第5回実行委員会(19名)
11月13日 発足1周年のつどい2(豊島公会堂) 600名
講演「拉致問題解決の道」(蓮池透氏)
同 「東アジア共同体と9条の新しい意義」(桂敬一氏)
歌(きたがわ・てつ氏)と訴え(高校生、大学生)
11月30日 第6回実行委員会(24名)。10年11月に大型企画「東京9条まつり」開催を決定。
12月21日 第7回実行委員会(29名)。「東京9条まつり」は都内の各地・分野の九条の会や改憲反対の広範な人々と協力して実行委員会形式で行うことを決定。
特別講演「衆議院比例定数削減とは何か」(坂本修氏)

 今年の主な予定は次のとおりです。
(1)九条の会関東ブロック交流集会
 これまでの全国交流集会に代わって09年12月からブロック別交流集会が開かれ、すでに近畿と中国地方で開催されたが、関東(1都7県)は下記のとおり行うことを決定。

  • 日時 4月4日(日)午前10時〜午後4時
  • 会場 正則高校(港区芝公園)
  • 参加目標 500名
  • 午前は全体会、午後は13の分散会と2つの分科会(職場、青年)
  • 分散会の討議の柱
    (1)どのようにして「会」を広げ、増やしているか。
    (2)どのような日常活動をしているか。
    (3)「会」の財政はどうしているか。
  • 参加費 1000円
  • 主催 九条の会、九条の会関東ブロック交流集会運営委員会

(2)東京連絡会発足2周年記念「東京9条まつり(仮称)」

  • 日時 11月13日(土)
  • 会場 大田区産業プラザ(6階建全館貸切、大田区)
  • 主催 実行委員会形式

2 法律家の会の活動
 08年10月に発足した「九条の会東京連絡会を応援する法律家の会」の会員は現在、東京の弁護士60名。これまで2回の交流会を開催。4月10日に小森陽一教授の講演「法律家に期待すること」(参加者20名)、12月4日は「新政権の安保・外交について」(倉重篤郎毎日新聞論説副委員長)、「比例定数削減をどう考えるか」(志田なや子団員)、「格差・貧困の現状と平和をめぐる問題等について」(今村幸次郎団員)のレポートと意見交換(20名)。通信14号まで発行。

3 この1年、東京における9条運動は、共同センターと九条の会の2本足で着実に広がってきています。都内800余の「会」の350が東京連絡会に登録、連絡会の都心での夜の集まりでも遠く福生や青梅の「会」が参加、ピースナイト9(大学生)やピースパーティ9(高校生)の運動も年毎に広がり、11月13日のつどいでは大学生と高校生の壇上の訴えにそれぞれ10万円ものカンパがその場で寄せられました。「会」の活動を支える中高年の姿をみて若者は勉強し、若者のがんばりに中高年は喜んで手を差し伸べる。また「会」と「会」の横のつながりも強まっている。連絡会が人々を結びつけ、9条運動を前進させる跳躍台として機能していることは明らかです。2010年の企画である4月の関東ブロック交流会、11月の「東京9条まつり」には都内各地から多数参加し、9条運動をさらに飛躍させていきたいと思い増す。なお、連絡会は会合を毎月開き、事務局会議も月2回開いているので、団員や事務局の皆さんもぜひ参加ください。

以上


中国人戦争被害者訴訟の到達点と課題
―今、戦後補償問題はどのような位置にあるか―

ピ−プルズ法律事務所  南 典男

1 はじめに ―今の情勢の中で戦後補償問題はどのような位置にあるか―
 2009年9月30日、衆議院議員選挙で民主党が圧勝、自民党が大敗した。同月16日、政権は交代し、鳩山由紀夫氏が首相となり、民主党、社民党、国民新党3党の連立政権が誕生した。これは、国民生活が、雇用、医療などの小泉改革政策によってずたずたにされる中で、大企業を保護する政治から国民生活を第一とする政治への大転換を国民が望んだ結果だろう。同時に、イラク戦争、金融恐慌で疲弊したアメリカで、アメリカ国民の生活再建と変化を重視する民主党のオバマ政権が誕生したことも背景事情にあるだろう。
 このように,民主党連立政権は,国民の期待を受けて誕生した。しかし,その後の政権の経緯をみると,官僚の抵抗,小沢幹事長体制など,その限界も現れてきている。
 戦後補償問題も,自公政権に比べれば変化しているが,民主党連立政権による政治決断のハードルは決して低くない。
 戦後補償問題は,そもそも国民にとってどのような問題なのであろうか。
 いわゆる「戦後補償問題」をどうとらえるかについては、諸説あるところであるが、私は、アジア太平洋戦争で行われた「人道に対する罪」(不特定多数の住民に対する爆撃や虐殺、人体実験、強制連行・労働、性的強制、捕虜虐待など)に該当する所業によって犠牲者となった人々に対する個人補償だと考えている。
 戦後補償問題は、日本においては一貫して放置されてきた。法的には、サンフランシスコ平和条約で個人の請求権が放棄されており解決済みだという理由で。だが、アジア太平洋戦争を遂行した人々が、アメリカの庇護のもと戦後も力を持続したという政治的理由こそ、戦後補償問題が放置された最大の要因ではなかったか。そのため、アジア太平洋戦争に対する日本の国家責任が曖昧となり、「戦争」は人権侵害が問われない「聖域」となり、戦後補償は問題とされてこなかったのである。
 民主党連立政権による戦後補償問題の解決の可能性の方向性は二つの点で指摘できる。
 ひとつは、アジア重視の方向性の中で。連立政権合意書には,「中国,韓国をはじめ,アジア太平洋地域の信頼関係と協力体制を確立し,東アジア共同体(仮称)の構築をめざす。」と書かれている。
 ふたつは、人権重視の方向性の中で。人権侵害に聖域はない。たとえ戦争中であっても人道に対する罪を犯したときは、人権侵害として個人補償されるべきなのである。これは、連立政権の生活重視の方向性とも合致する。
 しかし、戦後補償問題の解決が連立政権の政策合意の中に明記されていないこと,連立政権のアジア重視,生活重視の姿勢が次第に曖昧になっていることからも明らかなように、戦後補償問題の解決は具体的な課題に押し上げられていない。
私が関わっている中国人戦争被害者訴訟の到達点と今後の課題を明らかにする中で、戦後補償問題の解決を展望したい。

2 中国人戦争被害者訴訟とは何か
 私たちが取り組んでいる中国人戦争被害者訴訟は、アジア太平洋戦争で最大規模の被害国となった中国における象徴的な、人道に対する罪に該当する事件について起こした裁判である。原告たちは、その事件の被害者を代表して訴えを起こしており、裁判の目的は事件の被害者全体の解決を目的としている。その意味で政策形成訴訟ということができる。
私たちが提訴している事件は以下のとおりである。

(1) 南京大虐殺事件
 南京虐殺事件とは、一九三七年、日本軍が当時の中国の首都南京を攻略し、占領したとき、中国の軍民とくに民間人に対して行った虐殺・強姦・略奪・放火などの不法残虐行為のすべてをいう。
 日本軍により銃剣で何十カ所も刺され,九死に一生を得た李秀英さんが原告となった。
(2) 731部隊による人体実験
 731部隊は中国東北の平房に建設された日本陸軍の部隊で、細菌戦のための研究・開発機関である。731部隊に強制的に連れてこられた犠牲者は、少なくとも3000人を数える。
 ペスト菌など様々な種類の細菌を注射して細菌感染効力を検査する生体実験を初めとして、人間は水分をどのくらい抜いても生きていられるか、低圧の中に入れたらどうなるか、動物の血液と交換したらどうなるか、X線を長時間照射したらどうなるか、などの人体実験が日常的に行われていた。
 1945年8月9日、ソ連が対日参戦すると、証拠隠滅のために、「マルタ」は全員殺害され、731部隊の建物は破壊された。
 731部隊の被害者の遺族が原告となった。
(3) 無差別爆撃
 軍事施設のない無防備の都市に対する無差別爆撃を最初に行ったのは、日本軍である。重慶、永安など多くの都市を無差別に爆撃した。
 永安市で子どもの時無差別爆撃によって右手を失った高さんが原告になった。
(4) 「慰安婦」(性奴隷・性暴力)事件
 日本軍は、1942年から43年にかけて山西省のある村に押し入り、そこで、13歳から20歳くらいまでの女性を集め、銃剣を突きつけて強制的に連行した。そして、彼女たちは石洞に監禁され、日本兵から集団で毎日のように強姦された。
 性奴隷,性暴力を受けた被害者達が原告となった。
(5) 強制連行・強制労働事件
 1941年の日本政府の閣議決定に基づき約4万人の中国の人たちが日本に強制連行され、日本全国の35の企業、135の事業所に配置された。満足な食事が与えられず、長時間労働を強制されたため、現在わかっているだけでも、6830人の人たちが亡くなった。企業と国に対し、強制連行・労働の被害者やその遺族が全国各地で訴訟を起こした。
(6) 平頂山事件
 1932年、日本は「満州国」を建国するが、その直後、日本軍は抗日活動と通じているとして平頂山村の抹殺をはかる。村人たちは崖下に集められ、一斉に機銃掃射を浴びせられ、息のある者は銃剣でとどめを刺された。家族は惨殺されたが、奇跡的に生き残った被害者たちが裁判に立ち上がった。
(7) 毒ガス・砲弾による被害者
 日本軍は大量に製造し中国に配備した毒ガス弾等を地中に埋めたり川に捨てたりして遺棄・隠匿した。戦後,その毒ガス弾等が道路工事等で発見され、工事していた人たちなどが被害に遭うなどの事故が起こっている。亡くなった遺族や後遺症に悩まされて いる被害者(子供達も)が裁判を起こした。

3 中国人戦争被害者訴訟の到達点
 以上の裁判を起こすきっかけとなったのは,永野茂門法務大臣(当時)の南京大虐殺事件をでっちあげとする発言である。
 1994年5月、日本民主法律家協会の呼びかけで弁護士を中心とする中国司法制度調査団が中国を訪問した。そのさなかに永野法務大臣(当時)が南京大虐殺事件を「でっちあげ」と言明したことから、調査団は日本政府に抗議声明を出した。中国人戦争被害者たちが、日本にも侵略戦争による被害者の立場に立つ弁護士がいると知って,協力要請をしてきた。彼らは,加害事実を否定する閣僚の発言が相次ぐ中で、日本政府に対する怒りを募らせていたものの、なすすべがなく時を過ごしていた。しかし,戦後50年が経とうという時、日本の弁護士と出会い,日本政府を追及する道のあることを知り、訴えを起こすことを決意したのである。
 731事件,南京虐殺事件,慰安婦事件の被害者たちが1995年8月、訴えを起こし,さらに,強制連行・強制労働事件,平頂山事件,遺棄毒ガス被害事件などの被害者たちが,裁判に立ち上がった。
 戦後補償裁判は、当初,除斥期間(不法行為から20年を経過すると損害賠償請求権が消滅する)や国家無答責原則(国家は権力的行為につき責任を負わない)を理由に,事実認定をしない判決がほとんどだった。しかし、戦争被害者らの人間の尊厳をかけた訴えと世論の高まりによって、事実認定をする判決が出されるようになった。
 戦後補償裁判の中では後発となった中国人戦争被害者訴訟では、前述したすべての事件で詳細な事実認定と不法行為の判断がなされた。
 また、突破することが極めて困難と思われた法的論点の壁を乗り越える判決が現れるようになった。劉連仁強制連行事件訴訟判決、福岡強制連行事件第1次訴訟判決,遺棄毒ガス被害第1次訴訟判決は、除斥期間を適用することは著しく正義・公平に反するとし、新潟強制連行事件訴訟判決は時効の適用を制限した。京都強制連行事件判決,東京強制連行2次訴訟判決,新潟強制連行事件新潟地裁判決、福岡強制連行事件福岡高裁判決,慰安婦第2次訴訟東京高裁判決は、国家無答責原則を適用しなかった。
 さらに、原告側が勝訴する判決も現れた。2001年には劉連仁強制連行事件訴訟判決,2002年には福岡強制連行事件訴訟判決,2003年には日本軍遺棄毒ガス被害1次訴訟判決,2004年には新潟強制連行事件訴訟判決が,原告の請求を認め,同年、京都強制連行事件では企業に責任を認める和解が成立した。
 以上のとおり,戦後50年の提訴から10年を経て、裁判支援の運動の広がりを基礎として、当初の困難性を克服して、どの裁判も事実を認めるようになり、除斥、国家無答責原則という法的論点の高い壁を切り崩し、勝訴判決を勝ち取るまでに前進した。

4 4・27最高裁判決
 こうした中で,2007年4月27日,西松建設強制連行・強制労働事件訴訟最高裁判決(第2小法廷)が言い渡された。
 判決は,日中戦争の遂行中に生じた中華人民共和国の国民の請求権は,日中共同声明5項によって,裁判上訴求する権能を失ったというべきであ」るとして,原告らの請求を棄却した。日中戦争中の被害に基づく個人の賠償請求権の司法による救済を一律に否定するもので,極めて不当な判決である。闘いの前進に対し,日本の裁判所は,「請求権放棄」という最後の手段によって原告らの請求を封じようとしたのである。
 この判決が出された後、南京大虐殺・731部隊・無差別爆撃事件訴訟、「慰安婦」事件第1次・第2次訴訟、東京強制連行事件1次・2次訴訟,福岡強制連行事件第1次訴訟,京都強制連行事件訴訟,北海道強制連行事件訴訟,新潟強制連行事件訴訟,平頂山事件訴訟など中国人戦争被害者訴訟の多くが,「請求権放棄」を理由に最高裁で上告棄却された。
 しかし,同時に,この判決は,強制連行・強制労働された被害者に対し一定の配慮をせざるを得なかった側面も併せ持つ。政治解決の根拠を提供したのである。
 第1に,最高裁は,原審が適法に確定したとして強制連行・強制労働の事実を明確に認めた。
 昭和19年8月の閣議決定によって161集団3万7524人の中国人労働者が日本内地に移入され,強制労働が行われ,食事は少なく粗悪で衣服や靴の支給,衛生環境の維持等が極めて不十分であり,傷病者に対する治療も充分行われず,送還時までに死亡した者は移入者総数3万8935人のうち6830人(17・5%)であること,西松建設は,損害が生じたとして補償金を国から取得したが,他方,本件被害者らは,騙されたり突然強制的にトラックに乗せられたりした者で,失明など後遺障害を負い或いは死亡したことを明らかにした。
 第2に,最高裁は,被害者らの精神的・肉体的苦痛が極めて大きいこと,他方,加害企業は被害者らを強制労働に従事させて相応の利益を受け,更に補償金を取得していることを指摘して,加害企業を含む関係者(国も含まれると思われる)が被害の救済に向けた努力をすることが期待される,という提言をした。

5 15年間の裁判で培ったものと解決の展望
 15年間にわたる裁判の闘いの中で,培われたものがある。
 ひとつは,総ての事件で国が行った所業と被害の実相が裁判所によって認定され確定したことである。15年間の闘いの中で,中国側の資料,被害者の証言,日本側の資料,元日本兵士の証言,研究者の意見書と証言が発掘され,深められ,これを基礎に裁判所が認定した事実は、判例という形で公の文書として未来永劫残ることとなった。
 ふたつは,裁判所は,法廷の場で,正義と公平に反する加害と被害の実相を認識し,解決の必要性を認め,これを求める提言を行うに至ったことである。前述した最高裁判決だけでなく,福岡高等裁判所及び同宮崎支部は,強制連行事件において,国と企業に対し和解をねばり強く求めたし,東京高等裁判所は,遺棄毒ガス被害事件において,国家の責務として全体的且つ公平な被害者救済施策を求めた。
 みっつは,日本の弁護団・市民と中国の弁護士・市民が裁判支援と被害者のための解決を求めて共同して実践し,その輪を広げ,信頼を深めたことである。最初は,本気で裁判に取り組むのか懐疑的だった被害者や中国の人たちが,長い年月をねばり強く実直に取り組む日本の市民・弁護士の闘いに信頼を深めていった。
 裁判の15年間に及ぶ闘いの中で培われたこの3つの到達点は,裁判提訴のそもそもの目的だった,人道に対する罪に該当する中国人被害者全体の解決の礎となるものである。
 したがって,個人の請求権は放棄されているとした西松建設最高裁判決が出された後も,弁護団は解散せず,闘いを継続している。15年間の裁判の闘いの中で培ったものを礎に,係属している裁判所には法的解決の働きかけを,そして,日本政府に対して被害の政治的解決を求めて闘っている。
 鳩山首相は,9月22日に行われた日中首脳会談で歴史認識を表明し,村山談話を踏襲するとした上で,東アジア共同体構想を目標に持つことを訴えた。記者会見では,ドイツとフランスの先例を出して,EUのように共通の通貨を持つことをめざすと述べたこともある。
 真に安定的且つ平和的な日中関係を築き上げるためには、ドイツとフランスの教訓のように,経済交流だけでなく,歴史認識問題・戦後補償問題の解決が必要不可欠である。なぜなら,信頼ある日中関係の創造は,国を超えた人と人との信頼関係の構築無くしてはあり得ないからである。
 したがって,「解決」の内容は、人と人との信頼を築き上げるものでなくてはならない。加害者である日本政府や企業が、(1)事実を認め被害者に対し謝罪すること、(2)謝罪の証として補償すること、(3)未来に向け、加害の過ちを二度と起こさないために加害事実を記憶にとどめることが基本的骨格となるが,「解決」の中核は、日本側が誠実に心を示すことである。この点をもし曖昧にすれば、中国民衆の信頼を得ることはできず、未来ある日中関係を築くことはできない。
 弁護団は,判決で認定された被害・加害事実と最高裁判決の提言に基づき,国に政治責任,企業に社会的責任があることを明らかにして,被害者達の解決を求めていく。被害者と協議した上,中国人強制連行・強制労働被害者,中国人遺棄化学兵器被害者,それぞれの解決提言を発表している。中国人「慰安婦」問題の解決,平頂山事件被害者の要求の実現と解決,731部隊の被害者遺族,南京事件の被害者の解決も求めていく。戦争被害者(原告)はすべて高齢であり時間の余裕がないことを考えると、解決を急がねばならない。
 強制連行・強制労働問題では,西松建設による中国人被害者に対し,同社が基金を設立する和解交渉が進行している。基金の受皿には,人権発展基金会という中国の然るべき団体がなることが予定されており,これを中国人強制連行・強制労働問題全体の解決のステップにすべく懸命な努力がなされている。
 遺棄化学兵器被害の問題についても,子ども達も含め44人もの多くの住民が被害にあった中国チチハルの事件の判決が5月25日に言い渡される予定である。被害者達は,この判決を契機に,医療支援,生活支援の政策を日本政府が形成することを求めている。
 慰安婦問題についても,国際的な動きに連動して,日本国内の自治体で決議が次々になされている。
 昨年末,民主党内に,戦後補償問題の議連が発足した。シベリア抑留問題,BC級戦犯問題,韓国の戦後補償問題とともに,遺棄化学兵器被害問題,中国人強制連行問題,慰安婦問題などがとりあげられることになるだろう。しかし,結局は,世論の動向が方向性を規定する。
 解決提言の実現は,アジア諸国民と日本との間の信頼関係をつくり,東アジアの安全保障に大きく寄与する。被害者の訴えを核として,中国の世論,日本社会の世論,国際社会の世論を強め,最終的には政治を動かし,連立政権の政治決断を促す闘いを展望したい。

以上


3月20日「横田基地もいらない!
市民交流の集い」へのお誘い

拝島法律事務所  盛岡 暉道

 米軍横田基地では、2年前から、約500億円を使って、府中の航空自衛隊航空総隊司令部を、米第五空軍司令部と在日米軍司令部の真ん前に移設する工事が始まり、この秋にそれが完成して、横田基地は、新たに日米合同の陸・海・空の全軍指令基地に変貌しようとしている。
 このような、横田基地の動向に対して、昨年の団東京支部定期総会議案書は、「基地反対の闘いをラムズフェルド前国防長官は『歓迎されないところに基地はおかない』と、かつて言明した。横田基地を撤去するべく、住民から歓迎されないことを示すためにも、今、改めて一人ひとりが『基地ノー』の声をあげていくことが求められる。」と団支部のみなさんに、行動を呼びかけた。
 といっても、この横田基地の変貌で、特別に米軍機や自衛隊機の発着が頻繁になるわけでもなく、突如、巨大な建物が姿を現すわけでもない。
 それは、この新たな日米合同全軍指令の機能が、もっぱら、軍事通信衛星網と司令部の施設内or地下の施設内作戦指令室とが担うため、横田基地周辺の住民にとっては、直接には、日常生活に大きな変化は起こらないからである。
 しかし、この結果、横田基地周辺は、今まで以上に、「百年たっても基地の街」で在り続け、なによりも、アメリカが世界中でしかける凶悪な戦争の拠点を許している「共犯者の街」となってしまう。
 このような横田基地の変化を許さないため、昨年の秋から、横田基地の周辺の市民・住民団体のいくつかが集まって、この横田基地の動きに抗議する運動を始めることを話し合った。
 そして、今年の1月13日、「横田基地もいらない!市民交流の集い」実行委員会を結成し、3月20日(土)1時半から、福生市民会館小ホールで、シンポジュウム兼報告会兼意見交流の集会をもつことを決めた。
 この「横田基地もいらない!市民交流の集い」の狙いは、

(1) 今年の夏か秋に、横田基地への航空自衛隊航空総隊司令部の移転に反対する大きな共同行動を起こそう。
(2) しかし、それが、今までの横田基地に対する反対行動がそうであったように、その大行動の後には、地域に、何の運動も組織も残らない1回限りのもので終わることがあってはならない。
(3) そのため、まず、多摩地域をはじめ都内並びに近県の各地で、すでに横田基地その他の日米の軍事基地に対して、注目すべき取り組みを行っている市民組織や個人が、一堂に会し、多様な運動や情報・意見の交換・交流を行う。
(4) そして、この集いの参加者が、ああ、こういうことなら自分たちの組織・地域でもやってみようという気持ちを持ち帰ることが出来るような、自分たちの運動の現状にみあい、教訓に富んだ情報・報告・意見が交換しあえる集いとし、
(5) もっとも肝心なことは、横田基地の撤去を勝ち取るまで、この集いを、繰り返し継続して行い、横田基地への強固な市民の反対運動の積み重ねの場に育て上げる

 ことと合意しあった。
 この実行委員会は、即年秋からの準備会から数えれば、すでに5回の会合を重ねているが、呼びかけに応じて実行委員会に参加してきているメンバーは、まだまだ不十分ではあるが、なかなかの広がりをもった顔ぶれになってきている。
 それは、われわれにおなじみの、安保破棄中央実行委や東京平和委員会や都原水協などといった上からの(安易な)呼びかけを避け、あくまでも、この地域で行動している組織、運動体同士の繋がりの中から、「集い」を成功させていく方法をとったからである。
 集会のチラシの呼びかけ文は
 「なぜ、普天間や横田は65年間も居座っているのか
  なぜ、自衛隊航空総隊司令部が横田基地にやってくるのか
  横田基地のミサイル防衛は『抑止力』なのか
  私たちの目で、横田基地を徹底的に考えましょう」
であり、(1月27日現在で)実行委員として名前を連ねているものを紹介すると
 個人〔()内は所属団体〕は、
 池田公三(横田基地の撤去を求める西多摩の会)、伊沢秀夫(武蔵村山九条の会)、岩田克彦(立川平和委員会)、上原公子(国立市在住)、榎本信行(横田基地問題を考える会)、岡口明(JMIU日本電子支部)、大竹雄二(昭島・美堀町九条の会)、折井暁(立川革新懇)、柿田芳和(立川労連)、川根進(平和のための戦争展・小平)菊地亮(東京土建多摩西部支部)、小柴康男(九条の会・あきしま)島田清作(市民のひろば・憲法の会)、清水多恵子(昭島母親連絡会)、下村三郎(元理学電気労組委員長)、砂山洋一(東村山・富士見町九条の会)、高橋美枝子(羽村平和委員会)、高山武好(昭島年金者組合)、寉田一忠(横田基地の撤去を求める西多摩の会)、松山清(横田基地の撤去を求める西多摩の会)、三木勉(東京土建多摩西部支部)三井亨(社会医療法人健生会)、盛岡暉道(横田基地問題を考える会)、山口響(ピープルズ・プラン研究所)、吉田健一(三多摩憲法ネットワーク)渡辺正郎(平和行進通し行進者)
 団体は、
 昭島年金者組合、三多摩法律事務所、社会医療法人社団健生会、九条の会・あきしま、JMIU日本電子支部、立川革新懇話会、東京土建多摩西部支部、昭島・美堀町九条の会、横田基地の撤去を求める西多摩の会、横田基地問題を考える会
である。
 「集い」は、2部構成で、
 第1部シンポジュウムの3名のパネリストは、
 島田清作氏(市民のひろば・憲法の会)、山口響氏(ピープルズ・プラン研究所)、寉田一忠氏(横田基地の撤去を求める西多摩の会)
 が決定で、
 第2部活動報告の5団体は、
 「三多摩平和運動センター」(旧総評系三多摩労協の平和運動団体―現在も続けている"10.21反横田基地集会とデモ)、「東京土建多摩西部支部」(横田基地に対する合同団体の取り組み)、「日本共産党武蔵村山支部」(米少年らのロープ張り事件)、「横田基地問題を考える会」(学習集会、冊子発行活動)、「横田・基地被害をなくする会」(騒音訴訟後の新たな取り組み)を予定
している。
 なお、九条の会について云えば、当然のことながらその性格上、各九条の会の参加者が必ずしも反基地、反安保ではないことへ配慮して、会自体の実行委員会入りを控えているものが多い。
 どうか、団支部員のみなさんが、この「横田基地もいらない!市民交流の集い」の運動に、注目し、絶大なご支援を下さるよう、心から、お願いいたします。

 
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